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2012年9月23日日曜日

我慢できる子供を育てるために大事なこと


 「EQ こころの知能指数」(ダニエル・ゴールマン 講談社)に、マシュマロ・テストという実験が紹介されています。

■子供の将来を示す、マシュマロ・テスト

 対象となるのは四歳児。実験者は皿の上にマシュマロ(子供の好きなものなら何でも良いのですが)を一つおき、こう言います。
「今から私は外に出るけど、私が戻ってくるまでこのマシュマロを食べずに待っていられたら、もっとたくさんあげよう」
 そうして、15分から20分ほど部屋を空けます。
 子供の反応は大きく分けて二つ。実験者が帰ってくるまで待てる子供と、待つことができずマシュマロを食べてしまう子供です。

 問題は子供たちのその後を十数年に渡って追跡調査した結果。マシュマロを食べずに我慢できた子供は社会性、学力ともに、食べてしまったグループより高い成績を示したそうです。つまり我慢する能力がこうした差を作ったのではないかというのがその解釈でした。

 当然、気になりますよね。どうしたら我慢できる子どもが育つのか。
「いろんなことを禁止して、我慢に慣れさせればいいのでは?」
 はい、ハズレです。

■「我慢させる」では「我慢する」力は育たない

 このマシュマロ・テストで問われているのは「我慢する」こと。よく誤解されているのですが、「我慢する」のと「我慢させられる」のは、全く別の能力です。
 例えて言うなら「明日テストだ」と自分で考えて、遊ぶのを後回しにできるのが「我慢する」能力。逆に「遊んでる暇なんかないでしょ!」と言われて、監視つきで嫌々ながらも勉強するのが「我慢させられる」能力。
 強制がなくても行動を律することが出来るかどうかが、その違い。

 我慢する能力を育てるには、自分で判断して、その結果を経験することが必要です。マシュマロ・テストで言えば、食べてしまってもらえなかった、あるいは食べないでたくさんもらえた、といった体験を繰り返すことで、結果を予測した行動がとれるようになってゆくのです。
 親や教師が「我慢させてくれる」状態では、「我慢する」力は育ちません。

■最も大切な要素「信頼」

 さらにもう一つ。
 我慢には信頼が必要です。
 1つ仮定してみましょう。仮に、マシュマロ・テストで我慢できた子供に、ご褒美のマシュマロを与えなかったとしたらどうなるでしょうか。さらに何度も、我慢させてマシュマロを与えないことを繰り返したら?

 一回二回なら我慢できる子どもはいるでしょう。しかし何度も約束を破られれば、我慢しても無駄、目の前のマシュマロを食べてしまえと考えるようになるでしょう。つまり、我慢できる子どもは、約束が守られると信じているから耐えられるのです。
 
 心理学では、未来が予測できない時に「今さえ良ければいい」という刹那主義になりやすいことが知られています。「この先どうなるかわからないなら、我慢しても頑張っても無駄」と考えるからです。今の我慢が、努力が未来につながっている信頼があるから、我慢も努力もできる。

 たとえば震災の時「日本人は暴動を起こさない」と外国で賞賛されました。
 あの時、被災者の方々の頭のなかには「きっと助けが来る」という信頼があったのではないでしょうか。もし「誰も助けにこない、見捨てられている」と感じている人ばかりだったら「身を守るために奪い取れ!」というパニックになってもおかしくありません。
 社会に対する信頼が、あの落ち着きの根底にあったのです。

 そう考えると、子供を我慢できるように育てるには、信頼が必要だとわかります。
 具体的には、約束を守ること。親の都合でルールを変えないこと。

 もし「あとで遊んであげるから」と言ったのなら、疲れていても遊ばなければならない。「次に買うから」といったら、次は買わなければなりません。約束は守られる、という信頼が我慢する力を育てるのですから。

 逆に、悪い約束も守らなければなりません。マシュマロテストで言えば、待てなかった子どもにマシュマロを与えてはいけないのです。何かを「買わない」と言ったら、へそを曲げようがだだをこねようが、買わない。それも言葉に対する信頼のうち。

 ただし、突き放すのではありません。頭ごなしに「ダメ!」では、欲しい物が手に入らないストレスと、叱られたストレスが重なって大変です(どちらかといえば、親が)。「欲しい気持ちはわかるよ」と、子どもの欲しい気持ちによりそいつつ、買わないものは買わない。
 結果は同じでも、気持ちを理解してもらえたことで子どもは納得しやすくなります。

付記
 肝心のモンテッソーリ教育的な考え方を書いていませんでした。下の記事で、改めて書いています。
我慢できる子を育てるために大事なこと②

・・・我が家の場合・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 悪い約束を守るのは、親にとってもつらい我慢です。
 娘が三歳の頃、奈良でシカの人形を買って欲しいと言ったことがありました。ビニール製の、車輪がついているだけの人形が千円。完全な土産物価格ですから、買うわけ無いですよね。娘の好きな「じゃがりこ」10個分だと説明してやると、娘は納得しました。娘はね。

 本当に納得していなかったのは私で、しばらくすると後悔が頭をもたげてきました。もしシカの人形を買ったらどんなニコニコ顔になるだろうかとか、どんなに意気揚々として引いて歩くだろうかとか、考え出すと止まらなくなってきます。
 教育上、買わないと言った言葉を翻すわけにはいかない。といって、喜ぶ顔は見たい。迷っている間に買うチャンスを失ってしまいました。その後、本人がシカ人形を欲しがることはなく、買う機会は無いまま(わが家では原則として、本人の欲しがらないものは買いません)。

 たぶん今買っても、あのときと同じ反応にはならない。あのときの笑顔を見逃したことを、未だに後悔しています。
 私にとっての、子育て三大後悔の一つです。
 …バカ親?

2012年9月18日火曜日

モンテッソーリの言う「正常化」を脳科学で考えてみる

 ルールを守れない、人に迷惑をかける、積極性がない…。そうした問題は、しつけが原因といわれることが多いです。
 もちろんしつけや訓練として「外から型を当てる」ことは必要ですが、それだけでは不十分。子供の「中身」を育てる必要があります。

 モンテッソーリ教育では問題行動の原因を逸脱発達、つまり本来の発達コースをはずれてしまっているせいだと考えます。問題を解消する方法は、正常な発達コースを踏めるようにしてやること。
 「自らの知性と意志で自分の体を動かし、しかも心ゆくまでその活動に没頭し、自分の精神と肉体のリズムを取り戻すという、たった一つのことが必要なのです」(「ママ、一人でするのを手伝ってね」相良敦子)

 集中して体を動かす過程で問題が消えてゆくことを「正常化」と言います。モンテッソーリ教育の本を読んでいると、いろいろな問題を抱えた子供が劇的に変わる例がいくつも紹介されています。

 もちろん、ただ体を動かせばいいということではなくて、正常化が実現するには、いくつかの条件があります。

①子供が自分で選んだことに自由に取りかかること
②やり始めたことに続けて取り組むこと
③そのことに全力を傾けること(集中現象)
④以上の過程を通って、満足した表情で自分からやめること

 9月4日の「今できなくてもいいのです」で書きましたが、子どもが全力で取り組んでいる間、じっと見守るのも親としてはなかなか辛くはあります。

 
 どうして作業への集中によって、子供の人格にまで成長が起こるのか。


 敏感期と臨界期の話でも書きましたが、モンテッソーリ自身は、この集中現象による正常化を、人格を形作る決定的な要素だとみなしていました。問題児の多くは、この過程で親が押し付けをしたり、過干渉だったりすることによって、十分な集中ができなかったことによるものだと述べています。子どもの成長へのエネルギーは極めて大きく、適切な方向へ流れれば能力や人格を大きく育てることができます。しかしうまく使わなければ氾濫して問題を起こす、と主張していました。
 この理論はそれなりに納得できるところもあるのですが、現時点では証明されたわけではなく、仮説の一つだと言えます。


 そこで、今流行の脳科学的に考えてみると、以下のようになりそうです。
 脳の人格に関わる機能はほとんど前頭前皮質に集中しているとされています。自分で決めたことに集中的に取り組む行動には、行動する意思や主体性、感情の抑制(がまん)、試行錯誤による柔軟な思考など、前頭前皮質に関わる機能の多くが含まれています。手作業が前頭葉への血流を増やすことは、東北大学の川島隆太教授の実験からも明らかになっています。
 ある期間にわたってこのような刺激が続くなら、前頭前皮質の発達を促すことはむしろ当然だといえましょう。

 逆に、親によって指示や強制がある場合には自らの前頭葉で意思を発揮したり抑制したりする必要がなくなりますし、親が子どもの代わりにそうした作業をやってしまえば、訓練の機会そのものが失われてしまいます。黙って見守ることが重要な所以です。

 もしも前頭前皮質が十分に育っていなければ、計画を立てて守ることも、情動を抑制することもできません。いくら厳しくルールを教えても守れないのです。中身が育ってこそ、外面から教えられるルールが守れるようになるのだと思います。



2012年9月12日水曜日

子どもの想像力と親の財布を豊かに


 前回に引き続き、娘のブラックなネタです。

 二歳頃、宅急便ごっこをして遊んでいました。
「おにもつー」
 といって持ってきた箱には小さなぬいぐるみがたくさん。
「はい、荷物ありがとう。何?」
 と尋ねると、ぬいぐるみの一つを抱き上げて頬ずりし、
「ちっちゃいあかちゃん」
 といいました。うわー、赤ちゃん宅配とはシュールだなーと思っていると、娘は急に台所に走っていき、おたまを持ってきました。それで箱の「ちっちゃい赤ちゃん」たちをかき回し、一つすくい上げて
「肉だんご」

…どこの悪魔だ。

 このブラックままごとでは、箱と本物のおたまを使ってました。実はいとこのお下がりの「ままごとセット」もありましたが、何かが気に入らないらしく、いつも箱を使ってみたり本物の鍋を持ってきたり。とうとう一回も、ままごとセットでままごとはしませんでした。

 そういえば、プリキュアシリーズの変身ステッキをほしがったことがあります(テレビは戦闘シーンを怖がって観ないのですが、格好はマネしてみたいらしい)。しかし誕生日に買ったステッキはやっぱり使わず、ラップの芯に飾りをつけたステッキを自作してました。バージョンアップしながら、7、8本は作ったはず。

 六歳まで育てて思うのですが、売っているおもちゃは、たいていすぐに飽きてしまって、遊びません。逆に喜んで遊ぶのは、ゴミ寸前の不要品ばかり。
 段ボール箱。トイレットペーパーの芯、空き箱、色紙。それからセロハンテープとハサミ。


 モンテッソーリ教育と並んで有名な教育理論に、シュタイナー教育があります。自由への教育。芸術と結びついた教育。表現する言葉はいろいろありますが、独特の人間観に基づいた教育の体系です。
 このシュタイナー教育では、形の完成したおもちゃを与えません。布で作った顔も描いていない人形や、木の切れ端にサンドペーパーをかけただけの不定形な積み木を与えるそうです。完成品は想像力を刺激する余地がない、というのがその理由。
 納得させられるものがありますね。

 もしかすると買ったおもちゃでは想像力が刺激されないので、飽きてしまうのかもしれない。
 ということで、想像力を刺激するために、あえておもちゃは買わないという選択肢もあり。買わなくていいんですよ、うんうん。
 財布にも優しいし。

2012年9月7日金曜日

口から入るものと同じくらい、耳から入るものは重要です

 入浴中、人形を風呂の縁に立たせて、娘が言いました。
「せんぱいの人が、こうはいの人を、川にとびこませた事件があったよねえ」
「あったね」
 娘は人形の背中に手を添え、
「早くとびこめとは言ったけど、なぐるぞとは言ってない…」
 とつぶやくように言いつつ、人形を風呂にドポーン。

 ニュース番組の流しっぱなしはやめようと決意した瞬間です。


 私たちは、子供の口から入るものには気を使っています。甘いものとか、添加物とか、放射線とか(うちは福島県産の米を食べてますけど)。
 では、子供の耳から入るものにはどのくらい気を使っているでしょうか?
 
 テレビから、本から、周りの人から。
 食べるものが身体を作るように、目や耳から入るものは心を作ります。とくに、大好きな親の言葉はストレートに子供の心に入るはず。

 心理学には「自己成就予言」という言葉があります。人間は、自分の言葉や、自分自身に対するイメージ通りに行動してしまうという説です。
 れっきとした実験的根拠のある説ですよ。本当に。


 評価やイメージが現実を動かすという説は心理学ではポピュラーなものです。
 個人的には「認知的不協和」が関わっているのではないかと考えています。大ざっぱに言うと「人間は矛盾が嫌い」という性質です。


 「俺はダメな奴だ」という自己イメージを持っている人は、怠けたり、逃げたりとダメな人らしく行動するほうがイメージと行動が矛盾しません。逆に、頑張るのはイメージと矛盾してしまうので大きな努力が必要。そういう行動をとっているうち、本当にダメな人になる可能性があります。
 同様に、自分は不良だと思っている人は、自分は善良だと思っている人より犯罪的行動に抵抗を感じないはず。
 こうして、イメージが現実化してしまうというメカニズムです。

「バカ!」
「あんたはいつも遅い」
「どうせできないんだからやめなさい」
 これ全部、街で歩いているときに聞いた言葉です。これが心の奥底に沈んで「バカ」で、「いつも遅くて」「どうせできない」自分、というイメージを作り上げるとしたら…。

 昔は、あえて罵倒して発憤させようとするやり方がありました。しかし有害であることが判明している以上、もう消えるべき方法です。

 とはいえ、子供の問題を指摘する必要がある場合もあるわけで。
 「フィンランド式キッズスキル」(ベン・ファーマン 佐俣有佳子訳 ダイヤモンド社)という本では、
「君は○○が出来ない」
 という代わりに、
「○○が出来るようにしよう」
 という言い換えを紹介していました。これ、子どもに要求したいことは同じなのですが、イメージが全然違いますよね。片方は文字通り「お前は出来ない」ですが、もう一方は「いずれできるようになる」という意味が含まれています。子どもに与える影響も違ってくるでしょう。

「あんたは片づけられない」
 ではなく
「片づけるようになってほしい」

「好き嫌いが多い」
 ではなく、
「食べられるものを増やそう」

 ちょっとした違いですが、すべて心をつくると思えば、気をつけても損はしないと思うのです。

2012年9月6日木曜日

子供には「教えながら教える」のだそうです

 前回、間違いや失敗を指摘しすぎるのは問題だ、と書きました。しかし、間違いを指摘しないで、どうやってものごとを教えるのか。

 落語家の春風亭小朝が「眼高手低」の話をしているのを聞いたことがあります。どんな芸ごとでも、上達する時には眼、つまり観賞眼の方が先に上がる。そうすると自分の手、つまり腕前の足りないところが見えるようになり、上達できるというのです。
 自分の中に目指すべき基準を作ることが、上達の条件。
  子どもに教える場合にも、部分部分を修正するのではなく、何を目指すべきかの基準、全体の流れを見せてやることが必要なのだと思います。「どうしたらどうなるか」をひと通り教えてやり、あとはひとりで何度も繰り返して上達してゆくようにする。

 モンテッソーリ教育では「教えながら、教える」と言うそうです。不思議な言葉ですが、「訂正しながら教える」の対義語だと思ってください。
 教えたいことを、子供の目の前で、ゆっくりと(大人がふつうにやるのに比べたら、8倍の時間をかけると良いそうです)、やって見せます。とくに2、3歳の子供は、聞くのと見るのを同時にするのが苦手らしいので、黙ってやって見せるのが重要。何度も繰り返して見せてやり、あとは子供がそのやり方をまねるのを待つ。

 実際にやってみると、こちらが教えようとしても熱心に見ないこともあるし、教えてもそのとおりにしないこともあります。そういうときは、まだ理解できるときが来ていないと考えて、強制はしません。あくまで子供のペースを守ることが優先だそうで、適切なタイミングをつかむのは結構面倒です。
 訓練を積んでいるモンテッソーリの先生は、そのタイミングをきちんと掴んで指導するそうですが、プロならではの方法ですね。

 私自身はそこまで掴み切れないので、試しに一回だけやってみせることにしていました。子どもが乗ってくれば教える。乗ってこないときは、放っておく。そんなとき、子どもは1人で試行錯誤をしていました。
 「試行錯誤の間に脳は育つしなあ」というのが手抜きの言い訳…。

2012年9月4日火曜日

自分で挑戦してゆく子供になってほしい


 子供は自ら挑戦し、発展してゆくものだと前回書きました。ただし親が口出しし過ぎると、挑戦を嫌がるようになることもあります。

 子供が自分で何かをやるときには、よく失敗します。仕上がりもたいてい不完全です。だから親はつい、口を出したくなります。
「もっとまっすぐ切ればいいのに」とか、
「こんな色じゃないでしょ?」とか、
「お手本を良く見て、きれいに折りなさい」
 などなど。もちろん、上手くやらせてやりたいという親心からの言葉。

 しかし子供心には結構つらいのです。「あれがダメだ、これが出来ない」と言われ続けながら意欲を保つのは、大人でもかなりの難事。やがては挑戦そのものを怖がるようにもなりかねません。

 確実にできることにしか、手を出さない。
 子どもがそう考えるようになったら、自分で挑戦してゆくことは難しくなります。
 挑戦してゆく子供に育てたければ、急がないこと。子どもの成長にじっくりと付き合ってやるしかありません。

 そもそも子供の人生の本番は、20年も30年も先。今は出来なくてもいいのです。
 きれいな絵を描くより、立派な工作を作るより、たくさん失敗して自分自身を育てて欲しいと思っています。

 そう言いながら、気づくと可愛い絵やら工作やらの写真をたくさん撮ってたりします。しょせん親バカと言うことで…。