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2014年12月26日金曜日

子供に嫌われない叱り方

■わたしメッセージとは?

 以前にも書いた、「親業」の「わたしメッセージ」。
 相手を批判する「あなたメッセージ」ではなく、自分自身がどう感じるかを伝える事で、人間関係を良好にするコミュニケーションの方法です。

 例えば、子供がランドセルを床に投げ出している時。
「あなたはどうして片付けないの!」
 と、「あなた」を主語にするのではなく、
「ランドセルがそこにあると、(私が)通れなくて困るの」
 と、私を主語に伝えるのが「わたしメッセージ」です。直接相手を責めることがないので、良好な関係を保ったまま、必要なことを伝えることができます。

■根底にある、前向きな感情を語ろう 

 親業の本で面白かったのは、同じ状況でも、前向きに表現する方法があるということ。例としてあげられていたのは、子供の帰りが遅かった時です。

「遅いから、イライラしたじゃないの」
 これも「わたしメッセージ」には違いないのですが、イライラした、というのはそれ自体が一つの非難になります。
 それよりも、イライラした理由はなにか、考えてみよう、というのが親業の提案です。子供の帰りが遅い時、イライラしたのは、きっと心配だったからのはず。それなら、イライラの根底にある「心配」を語るほうがいい。
「心配で心配で、イライラしてたよ」
 と伝えるのです。

 言われる子供にとって見れば、
「遅くて腹が立つ」
 というのと、
「心配でたまらなかった」
 というのでは、意味合いが180度変わります。

 親が子供を叱るときには、愛情が背景にあることが多いものです。怒りや悲しみでも、その感情がどこからくるかを考えれば、前向きな感情として表現することができるはず。
 そういう感情を探すのは、一種の頭の体操でもあります。…脳トレとしてもいいかも。

2014年12月22日月曜日

二度と戻らないプリキュアショー

 公園などで、親子連れに出会うことがあります。まだ一歳そこそこの、ようやく歩けるようになった子供が、お母さんと遊んでいました。両手を前につきだして、倒れそうで倒れない、一歳時独特の歩き方。ああ、あんな頃もあったなあ、としみじみ思い出します。

 つい先日生まれたばかりだと思っていた子供が、もう八歳。時間のすぎるのは早いと実感しますね。そして時間は、過ぎてしまったら戻りません。

■永遠の謎、プリキュアショー


 ようやく文字が書けるようになったころなので、5歳くらいだったでしょうか。娘が、ピンク色の小さな紙を持ってきました。書いてあったのは

「プリキュアがくる! プリキュア ステージショー」

 なんと、招待券でした。
 娘はプリキュアのテレビは怖がって見ないのですが、衣装は大好き。このころ、ピンク色の紙を使って服をつくるのが彼女のブームでした。ステッキも持って、すっかりその気です。
 歌うのか、踊るのか。バカ親としては、実に楽しみです。ところが、時間が遅すぎました。どんなに遅くても9時には寝かせるつもりが、すでに9時5分前。
「わかった、ショーは見たいけど、明日にしような」
 家族にチケットを配り終えた娘は、素直に寝に行きました。

 次の日。

「ステージショーは?」
 と聞いたのですが、
「え?」
 みたいな顔をされました。どうやらもう、興味がなくなってしまった様子。むなしく残る手元のチケット。その後、彼女がステージショーを行うことはありませんでした。

 二度とは戻らない時間。こんなことが起こるのも、子育てです。可愛い姿は、むりしてでも見なくてはならないと実感した事件でした。
 それにしても、どんなステージショーになるはずだったんでしょう。永遠の謎です。

2014年12月20日土曜日

たまたま … 失敗を叱ることで、子供は伸びるのか?

 先日読んだ本が面白かったので、その話。
 「たまたま―日常に潜む偶然を科学する」という本です。

 単なる偶然を、まるで意味があるかのように勘違いしてしまうケースを解説した本です。


 印象に残っているのが、厳しい飛行教官の話。彼は、自分の生徒たちを厳しく怒鳴りつけることで有名だったそうです。いわく、
「生徒は褒めると気が緩んで失敗する。叱りつければ、失敗が減って上達する」
 というのです。一見、わかりやすく見える意見。

 しかし、この本を書いている科学者は、それは単なる偶然にすぎないといいます。

■どんなときに叱って、どんな時に褒めている?

生徒の実力を、仮に100としましょう。もちろん、いつも実力通りに飛行機を飛ばせるわけではありません。70くらいの力しか出せない時もあれば、130の力が出せる時もあります。これは、偶然によるばらつきです。

 教官が生徒を叱るとしたら、彼が70の力しか出せなかった時でしょう。叱られた彼は、次の時にはいくつの力を出すでしょうか? もともと100の力があるのですから、かなりの確率で100前後で飛ぶはずです。しかし教官は「叱ったから上手くなった」と考えます。

 逆に、彼が130の力を出したら、教官は褒めるでしょう。しかし褒められた彼が次に飛ぶときは、もともとの実力、100前後で飛ぶ可能性が高いです。教官は「褒めたからダメになった」と判断するでしょう。

■結果で一喜一憂しない

つまり、最初に上手く行かなかった(叱られた)場合、その次にはマシな結果が出るので、叱られて上達したように見えるのです。逆に、上手くできた(褒められた)後には、低い結果が出る可能性が高いので、褒めると気が緩むように見えるのです。

 つまり、褒められたり叱られたりすることと関係ない実力のばらつきを、褒めたり叱ったりの結果だと考えているところが間違い、ということ。

 この話、子供を育てるときにも覚えていて良さそうです。
 親にとっても、子供を叱るのはストレスのはず。気楽に過ごせるなら、そのほうがいいに決まってますよね。

2014年12月2日火曜日

二番じゃダメなんですか?

 題名の言葉、民主党政権の仕分けで出ました。流行語にもなりましたね。
 技術や商売の世界では、ナンバーワンは極めて有利。特許や広告効果などを考えれば、十分に意味があります。

 では、子育ての時は?
 親としては子供に優秀になってほしいと思うもの。とはいえ、
「1番でなくちゃ、意味が無い!」
 とまでいうと、子供を不幸にする呪いになります。

■テレビ・ネット時代の不幸

 昔はよかったのです。人間の村というのは、150人位の規模であった時代が長かったらしいのですが、この人数で「何かで一番になれ!」というのは、わりと簡単な事。
「村一番の美人」
「村一番の足の早さ」
「村一番の知恵者」
 などなど、何かの分野を限れば、すぐに一番になれます。集団の中で自分の長所を認識し、自信を持つことができるわけです。

 ところが、テレビやインターネットがあると、そうはいきません。世界中の情報が入ってきますので、一番になるのは極めて難しくなります。
 近所で一番の美人でも、テレビの中にはそれ以上の美人がゴロゴロ。足の早さの一番は世界陸上で決定されるし、頭のいい人は、いくらでもいる。

 そんな時代に「一番でなくちゃ、意味が無い」という価値観を持てば、どう考えても辛いだけ。
 「どうせ一番になんかなれないし、意味が無いなら、やる価値がないよね」と、努力そのものから逃げてしまえば、本来出せるはずだった力も、出せなくなってしまいます。

■幸せのもとは、身近な人間の認証
 
 「もともと特別なオンリーワン!」というのも、流行りました。多分、子供の幸せを思うなら、ナンバーワンじゃなくて、オンリーワン。

 ただ誤解してはいけないのですが、オンリーワンは「個性的」という意味ではありません。これだけたくさんの人がいる中で、誰とも違う個性があるなんて、ありえないことです。
「人と違っていなければいけない」
 というのでは、ナンバーワンのときと同じで、ムダなプレッシャーになるだけ。

 普通に手に入れられるオンリーワンは、身近な人間関係の中にあります。親から見て、友達から見てなど、近くの人が見て、かけがえのない、たった1人という意味。これなら、誰でも本当の意味でオンリーワンになれます。
 オンリーワンの自分の価値を信じられる子供は、勝ち負けや人との比較といった、外部の要因に左右されること無く、自分の能力を伸ばしていけるのではないでしょうか。

 多くの育児書が、子供を甘えさせること、自己肯定感を育てることの重要性を語っているのは、そういうことではないかと思うのです。
 

2014年11月12日水曜日

泥・水・練消し・ダイラタンシー流体

 「ダイラタンシー」をご存知ですか? テレビの科学番組などで、有名になりました。
 片栗粉に適量の水を加えると、ドロっとした状態になります。これを手で掴むと硬くなり、丸めて団子にしたりできます。ところが、手を広げた瞬間にまたドロっと流れてしまう。
 このように、「圧力がかかった時には固く、圧力がかかっていない時には液体化して流れる」状態のものを、ダイラタンシー流体というそうです。テレビでは「でんじろう先生」が、その上を歩くという実験をやってました。

 先日、子供のリクエストで片栗粉のダイラタンシー流体を作りました。確かに、ぎゅっと握ると団子になり、手を広げるとダラっと流れます。指先で混ぜるときも、ゆっくりだと軽く動くのに、早くすると急に固くなり、砕けて飛びます。不思議な感触。

 作った流体を子供に渡して、べつの用事をしていました。子供は飽きること無く、片栗粉をかき回しています。一時間…二時間…。時々、片栗粉が乾いたと言って水を足しに来る以外は、遊び続けています。
 夕食の時間になって「明日も遊ぶから残しといて」と言って終わりました。もちろん次の日もその調子。

 何が面白いのかと聞くと、感触が面白いといいます。水の量で触った感じが変わるのも楽しいとか。言われてみれば、普段から消しゴムのかすを練ってみたり、新聞紙の紙粘土を作ることにこだわったりと、手の感触に関わることが好きです。

 手先の感覚、操作は、敏感期の子供に重要である、というのが、モンテッソーリ教育の理論です。考えてみれば、昔から子どもといえば泥遊び、水遊びが好きなもの。そういう微妙な感触との関わりは、子供時代を通じて必要なのかもしれません。

 そんなわけで、ダイラタンシー流体を作ってみたい方のために、作り方を紹介しているサイトにリンクを。

ダイラタンシー流体の作り方

2014年9月20日土曜日

命の教育って、迷いますよね

 先日、娘が
「お父さん、見て見て! 実験!」
 と言って、水の入ったプラスチックボトルを持ってきました。
 よく見ると、直径1センチくらいの気泡があり、何か黒い点が。
「これだけの空気で、アリがどれだけ生きられるか、実験!」
 なるほど、気泡の中にアリが浮いています。
 「かわいそうだから出してやれ」と言いかけたところで、言葉が止まってしまいました。

■都合に合わせて基準が変わる…

 つい数日前、家に入ってくるアリを退治するためにホウ酸砂糖を設置しました。効果てきめんで、庭には大量のアリの死骸が。子供と「すごい効果だなー」と感心したところでした。殺虫剤で大量にアリを殺しておいて、実験はダメという説明が難しい。

 無駄に殺さない、というのが私の信条ではありますが、空気の重要性を調べたいという実験も、意味が無いとは言えません。結局、
「アリに、きちんと感謝するように」
 という、ななめ上の返事をするしかありませんでした。

■学びの機会と、生き物の生命

 生き物の命をどう教えるか、という問題は難しいです。
 例えば、子供がカメや金魚を飼う時。きちんと世話をしないと死んでしまうので、責任感を学ぶ良いチャンスです。

 子供は結果を予測するのが苦手です。世話しないと死ぬよ、と言っても、実際に死ぬのを見るまではその重大性がわかりません。
 本当の意味で責任を学ばせるには、世話を怠って、生き物が死ぬことが必要です(先日書いた日記と同じですね)。そうしてこそ、はじめて責任を負うことの意味がわかります。生き物には、教育のために死んでもらうことになります。

 しかし、死ぬとわかっていて、黙って見ているのは、なかなかできないこと。こちらも情がうつるので、つい口出しして、世話をさせてしまいます。恥ずかしながら、まだ子供が世話をしないために死んだ生き物はいません…。

 この問題は、迷いながらやっていくしかないのかもしれません。

■さて、結果は

 実験のアリですが、24時間たってもまだ生きていました。思った以上に、少ない酸素で生きられるようです。その後、中の空気を完全に抜くと、すぐに動かなくなったとのことでした。
 娘、もう一つ発見。
「お父さん、アリって、死ぬと沈むよ!」

 これも、科学する心の現れということで…。

2014年9月17日水曜日

三年習うより、三年師を探せ、という箴言

 なんであれ、子供の頃から習い事をさせれば、上達すると考えますよね。
 「一万時間の法則」で書いたように、能力は練習時間で決まることが多いので、それなりに根拠が有ります。
 ただ、それがいつもうまくいくわけではない…と、自分自身の体験から思います。

■習うことでかえって嫌いになることも

 私が幼稚園児の頃、習字を習いに行っていました。
 けっこう大きな習字教室だったのですが、先生がちょっとキツイ人。いつも怒られるか嫌味を言われるかだったので嫌になり、小学校二年生でやめてしまいました。ついでに習字も大嫌いになり、
 「字の形にこだわってるのは、心が歪んでるからだ」
 などと、負け惜しみを言っていたほど。

 兄と私がその教室に通ったのですが、二人とも字をきれいに書こうという意欲がないため、すっかり悪筆になってしまいました。
 弟だけは習字教室に行かなかったのですが、その弟が一番字がきれい、という逆転現象が起きてしまいました。

■好きこそものの上手なれ

 思うのですが、ある人にとって良い先生が、別の人にとっても良い先生とはかぎりません。とくに、初心者と上級者では必要な要素が違ってきます。

 上級者の場合は、先生がどれだけ高い技術を持っていて、見せることができるかが問題になります。
 一方、初心者の場合には、それほど高い技術は必要ありません。基本をきっちり教えることができれば、初心者の先生としての技術は十分です。
 むしろ、技術よりも重要なのは、習い事を好きにさせられるかどうかでしょう。

 昔から「好きこそものの上手なれ」という言葉がありますね。好きなものに対しては、やれと言われなくても自ら努力して、伸びていくもの。
 だからこそ、初心者の指導をする先生は、子供の興味を引き出し、好きにさせることが最優先になります。粗暴だったり、感情の安定が悪い先生はもってのほか。退屈な教え方をする先生も避けたいものです。

 子供に習い事をさせるなら、ただ先生任せにしていてはいけません。
 先生がどんなふうに指導するかを見て、必要なら先生を変えるくらいの覚悟必要です。
 お金と時間を使って嫌いにさせるほど、ムダなことはありませんから。

2014年9月9日火曜日

夏休みの日記を、子供に自己管理させてみた

 日記の宿題。
 子供の学校は夏休み以外でも毎日、日記の宿題があって、それを書かせるのが一苦労です。

 当たり前ですが、子供はそんなもの書きたくありませんから、なんとかギリギリまで逃げたいわけです。しかたなく「日記を終わらせてからテレビ」とか、「日記を終わらせてからマンガ」というように、先行条件にして、書かせていました。

 が、ある日、考えました。

■自分で考えて行動できる人になってほしい
 
 親が急かして書かせても、それは人の指示に従う訓練にしかなりません。自分で自分の行動を決めることはないので、いわば使われる訓練です。
 将来的には、自分でやるべきことを判断して、行動できるようになって欲しい。長い目で見て、親が書かせることはためにならないと判断しました。

 以前に紹介した本「子供の心のコーチング」で、「遅刻するのは子供の問題であって、親の問題ではない。問題を子供に返して、失敗から学ばせる」と書いてあったのを思い出し、妻と相談。
「よし、子供に任せよう!」
 と決めました。自分でやってみて、間に合わなかった体験を繰り返すことで、自分の行動を律することを覚えて欲しかったのです。

 子供に「これからは日記のことは一切言わない」と伝えました。
 それで間に合わなかったら、先生に「すみません、やっていませんでした」と謝りなさい、というところまで約束させました。

■夏休みの途中、やっぱり遅れ始める

 やってみると、急かさなくていいので、親は楽。子供も、言われることがないので上機嫌。家庭内の空気はいい感じです。

 最初の数日は、初めての緊張感もあって、頑張って日記を書いていました。
 それから、書き忘れの日が連続3日間。3日目になって、慌てて始めましたが、慌てたお陰であっという間に終了。
 この、1日で3日分の日記を書いたのが、良くない自信になったようです。
「その気になれば3日分くらい、すぐできるんだ」
 と思ったようで、ダラダラと遅れ始めました。

 妻と、いよいよ溜まり始めたなあ、と顔を見合わせました。
 夏休みの終わりになって、溜まった日記に呆然とするはずです。書いても書いても終わらない体験をして、場合によっては先生に頭を下げることでしょう。そうした失敗を繰り返して、自分から行動を律することを覚えるはず。
 親は我慢!

■夏の終わり。予想外の結末

 本人が再び慌て始めたのは、夏休みも残り一週間になってから。
 日付を見て、溜まっている日記の数を数えたのでしょう。急に涙目になって、
「もう、日記が終わるまで、机の前から離れない」
 などと、突飛な宣言をしたりしました。
 もちろん、そんな決心は続かないわけですが…(笑)

 それでも、頑張ってまとめ書き。少しずつ、少しずつ追いついて、とうとう8月31日の夜7時。
「終わったよ!」
 と得意満面。
 おかしい。こんなはずじゃなかったのに。

 妻が思わず口走りました。
「あー、間にあわせちゃった!」
 思わず私も
「大丈夫、きっとまたチャンスがある!」
 いつの間にか、間に合わないことを期待していた両親。見事な本末転倒ぶりでした。

 これが自分で自分を律する訓練になったのかはわかりません。ただ、問題を子供に返すことで、親がイライラしなくて済んだのは、大きな収穫でした。


2014年9月1日月曜日

ADHDは、本当に育て方と関係がないのか?

 最初に書いておきますが、この記事に書かれたことは私個人の考えであり、現時点で十分な根拠をもつ説ではありません。そのことに注意して読み進めてください。

■ADHDとは?

 ADHDの子供は、落ち着いて座っていたり、注意を持続することが苦手。やっていることを途中で忘れてしまったり、忘れ物が多かったりします。大きな声を出したり、衝動的に歩きまわったりするので、学級崩壊の原因と言われることもあります。日本の場合、子供のだいたい5%がADHDというデータも。

 昔は躾の問題と言われていましたが、今では生まれつき脳の一部が上手く働かない事によるものであると考えられています。

 しかし最近、いろんな本を読んでいて、ADHDはすべて生まれつき、という理論に疑問を感じるようになってきました。生育環境によってADHD、またはその類似症状が生じることがあるのではないか、と思うのです。

■ADHDは、幼児期の環境から?

 生育環境が原因と考えるのは、生育環境と問題行動の関連性を表すデータがあちこちで見られるからです。たとえば

・子供時代の大きなストレスが、行動に影響
 前々回に紹介した「成功する子・失敗する子」に、子供の頃に強いストレスを受けると、問題行動が増えるという調査結果がありました。
 問題行動を起こす子供の割合は、ストレス体験値0の子供で3%。ストレス体験値4以上の子供で52%と、完全な比例関係があります。

・親と子供の愛着関係の不足が行動に影響
 同じく「成功する子・失敗する子」のデータ。
 親が子供の感情を汲み取り、話しかけたり抱っこしたりすることは、ストレスの悪影響を緩和する働きがあります。そのため、親が子供の感情を無視したり、関わらなかった場合にも、問題行動の確率が上がります(前回を御覧ください)。

・ストレスによる脳の損傷
虐待を受けた子供の脳では、ストレスにより脳細胞が破壊されます。とくにダメージが大きいのは一時記憶を司る海馬。被虐待児では、そうでない場合と比べて10%前後小さくなっているそうです。
 現在、海馬の不調がADHDの原因の1つと考える学者がいます。海馬はコンピュータで言うとメモリにあたり、その能力が低いと、記憶能力の減少や行動の不安定を起こすと考えられているのです。

 海馬の他に、感情を司る扁桃体も破壊され、急激な攻撃性や、うつ状態などの原因となるという説もあります。

■モンテッソーリ教育からは

 モンテッソーリ教育では、敏感期に十分な集中ができなかった場合には、落ち着きが無い、乱暴であるなどの逸脱発達が起こるとしています。

 以前も書いたように、手を使う作業に集中することは、脳の自制心を司る部分を訓練すると考えられます。
 親の過干渉で自らの課題に集中できなかったり、作業をする環境が無かったりすると、その機会を得られず、問題行動を起こしやすくなるのです。

 虐待やストレスの場合と違うのは、脳細胞が破壊されるのではなく、発育の機会が不足していること。そこで、手を使う作業に集中する機会を持つことで「正常化」、つまり回復させることができるというのが、モンテッソーリ教育の考え方です。

■もちろん育て方と関係のないADHDもある。しかし…

 ADHDは脳の機能の問題なので、しつけが足りないとか、甘やかしによって発症するというのは明らかな間違いです。また、生まれつきADHDの人もいるでしょう。それは間違いありません。

 しかし、育つ過程で脳が傷つけられたり、必要な発達ができないことがある以上、環境によっても発症する可能性を考えるのが自然ではないでしょうか。全て生まれつきの問題で、育ちに関係ないというのは、かえって不自然です。

 もし未発達による問題行動なら、集中出来る環境を作れば改善する可能性があります。また、萎縮した海馬も、安定した環境で生活していれば、細胞の新生を助けることがわかってきています。
 回復の可能性があるのに、すべてを生まれつきのせいにしてしまうのは、かえってチャンスを奪うとも思われます。
 今後、生育歴や脳の働きなど、さらなる調査が必要だと思います。

2014年8月24日日曜日

長い人生で子供を助けるのは、幼児期のケア

 前回書いたように、幼児期の強いストレスで、心身の発達が阻害されることはわかりました。そうしたストレスから子供を守る方法は?

 現代科学の結論は、簡単です。子供の声に応えること、抱きしめること、気持ちを汲み取ってやることです。

■ストレスの影響を消す、親のケア

 まずは、ラットの実験から。
 実験用の子ラットに実験の処置をすると、子ラットはストレスを受けて、大量にストレスホルモンが分泌されます。ところが処置の後、母ラットが近づいて、なめたり毛づくろいすると、そのストレスホルモンが急激に下がったといいます。
 ただ、母ラットの行動には個体差があり、子ラットにケアをする母ラットも、全く関心を持たない母ラットもいました。
 
 マギル大学の研究者はこのことに興味を持ち、成長した子ラットを比較する実験を行いました。その結果、
「どのテストでも高LG(ケアを受けた)グループの子ラットが良い結果を出した。迷路を抜けるのもうまかった。より社会性があった。好奇心も強かった。攻撃性が低かった。自制がきいた。より健康で、長生きだった。」(p.67)

 個人的には、ラットの自制心をどうやって測定したのか興味がありますが…(笑)。親子の組み合わせを変えて実験しても、同じ結果に。
 ケアを受けなかったラットは、不安感が強く、攻撃的で、迷路などの記憶が悪かったそうです。

 人間の赤ちゃんでも親のケアとストレスホルモンの関係を調査したところ、言葉をかけたり抱きしめたりすることでストレスホルモンが減少することが確かめられました。
 人間の場合、そうしたケアは、成長後にどのように影響するのでしょうか。

■愛着関係と、子供の未来

 ミネソタ大学の研究者は、267人の妊婦を選び、その子供が生まれた時から数十年にわたって追跡調査しました。母親の子供へのケアと、「愛着関係」がどのような影響をもたらすかを調べたのです。

 愛着とは、特定の人間との精神的な結びつきを表す用語で、アタッチメントとも言います。大雑把に言えば、子供が親を信頼し、甘える関係。お母さんにくっつきたがったり、離れることを嫌がったりする子供を見たことがありますよね。

 母親が、子供が泣いたり声を出したりした時に、抱き上げたり声をかけたりして、子供に応えた場合、良好な愛着関係を形成しました。
 逆に、親が子供の声や行動に反応しなかった場合には、こうした愛着形成は弱いか、見られなかったとのこと。
 研究者は親のケアと、子供の愛着行動、その後の人生を追跡調査しました。その結果。

「多くの子供のケースで、満1歳時点での愛着関係が、その後の人生を広範囲にわたって予測できる指標となっていた。愛着の安定した子供たちは、人生のどの段階でも社会生活を送るうえでより有能だった。」(p.74)

 実験を知らない教師たちに、学校での行動や学力などを評価させました。わずかに例外はあるものの、愛着関係の良好な生徒の方が、生活態度も学習態度も良好でした。学力についても同様の結果が出ています。

 それどころか、
「子供たちの高校生活を追ったところ、どの生徒がきちんと卒業するかを予測する際に、知能検査や学力テストの得点よりも、幼少期の親のケアに関するデータの方が精度が高かった。(中略)精度は77%だった。つまり、子供たちが四歳にも満たないうちに、誰が高校を中退するかを8割近い確率で予測できたことになる」(同上)
 267人は母数として少ない感じもしますが、77%というのは、十分すぎるほど明確な結果です。親が幼児の声や行動に適切な反応を返す、というケアが多いか少ないかが、学歴と関係していることは間違いなさそうです。

 ストレスホルモンから守られたせいなのか、信頼関係そのものが良い作用をしたのかはわかりません。ただ、きちんとケアを受けて、愛着関係を形成した子供たちのほうが、社会で能力を発揮できるのは確かなようです。

 子供の能力を発揮させるには、子供の感情をくみ取り、言葉やスキンシップで返してやること。それが、現代科学による結論です。

■低所得の連鎖を避けるために

 この調査の結果を受けて、アメリカでは一風変わった低所得者の援助が始まったそうです。
 よく言われることですが、低所得者の子供は、十分な教育を受けることができなくて、同じように低所得者になることが多いのです。
 これまでの援助は、いかに低所得の子供たちに教育を与えるかでした。しかし、教材や教師によるケアは多額の予算が必要ですし、親が教育を与えるにはその能力が足りません。

 しかし、子供のいる親にケアの必要性と方法を教えることは簡単にできます。ケアも愛着関係も低かった低所得者家庭の親たちが、わずか数回の指導で子供の声に応えるようになり、良好な愛着関係が築けるようになったと言います。
 こうして育っていく子供たちは、ケアから獲得した性格の強みを生かして、低所得者から抜けだしていくだろうと期待されています。

 また、アメリカでは伝統的に子供は子供部屋で放っておくことが多かったのですが、こうした調査の積み重ねによって、放っておく育児はだんだん減っているそうです。

■親が子供に与えてやれるもの

 ここから感想。

 ストレスホルモンの悪影響もさることながら、親がきちんと応えることが社会的な訓練にもなっているのではないかと思います。子供は親の姿を見て成長するわけで、人が呼んでも泣いていても無視する親を見ていたら、社会性が育つわけはありません。

 日本でも一時、欧米の影響で「泣いても放っておく」方が良いとされたことがあります。
 一人で泣いて耐える方が鍛えられる、と考えられていたのですが、いまや迷信であることがわかりました。
 モンテッソーリ教育でも言うように、子供は大人とは別の生き物。大人を鍛えるように子供を鍛えても、成果が出るわけではないのです。

 子供の時代を大事にしてやること。
 赤ちゃんが泣いたら抱き上げてやること。
 子供が喜んだり、悲しんだりしたら、一緒に喜んだり悲しんだりしてやること。

 その気になれば誰でもできることですが、親が子供に与えられる、大きな財産です。


■もし不幸にして、幼児期に十分にケアをしてやれなかったら

 それでも、人間は変わる力があると、著者は言います。自制心、楽観主義、やりぬく力などを身につけることで、人生を変えられるとのことです。


2014年8月22日金曜日

「子供時代の環境が一生を左右する」という調査

 昨年出たばかりの本、「成功する子・失敗する子」(ポール・タフ 英治出版)

 アメリカでも、以前は子供が将来成功するかどうかは知性(または知識量)で決まると考えられてきました。しかし子供たちの追跡調査をすると、学力があっても伸びない子供や、最初はさほどでもないのに、あとで伸びる子供が出てきます。

 様々な調査で、子供たちの人生を決めているのは、ある時点の知識量ではなく、数字に表れない心理的な特質・性格である、ということがわかってきました。

 どんな性質が子供に必要なのか、どのように育てればいいのか、それがこの本のテーマです。
 その中で気になった、子供時代の影響の話を紹介します。

■子供の頃の逆境が、健康に影響する 

 1995年、カリフォルニアの保険団体が、健康診断を受けた人に、子供時代について尋ねるアンケートを行いました。子供時代の「暴力、性的虐待、身体的・感情的ネグレクト、両親の離婚・家族に依存症がいる…」など10項目で、当てはまるものに印をつけて、ポイント化するという調査。

 そのポイントと、現在の健康状態を比べると、
子供の頃に辛い環境にいた人ほど、健康状態が悪い
 というはっきりした相関関係が出たそうです。具体的には、逆境度が4点以上の人は、0点の人と比べて

・喫煙率と、がん、心臓病、肝臓病の割合が2倍
・肺気腫、気管支炎の割合が4倍
・アルコール依存が7倍

 影響は自殺の数にまで及んでいて、6点を超えると自殺未遂の経験が30倍だったそうです。すでに自殺してしまった人は回答できないので、自殺者を入れたらもっと増えるかもしれません。

■子供時代のストレスは、学習能力にも悪影響

 カリフォルニアの実験を知った、サンフランシスコの医師は、先ほどの逆境調査を参考に、学習や行動への影響を見ました。

・逆境度が0点で、学習・行動の問題が見られる子供は 3%
・逆境度が4点以上では学習・行動の問題が見られる子供が 51%

 例えるなら、クラスの中でたった一人と、クラスの半分。恐ろしいほどの差です。

 ストレスの多い環境で育った子供は、集中したり、じっと座っていたり、教師の指示に従うのが難しかったとのこと。強いストレスが、前頭前野の働きを阻害するものと考えられています。

 コーネル大学の研究者は、子供のワーキングメモリ(一時記憶)と、ストレスとの関係を調査しました。
 ワーキングメモリとは、作業中の手順を覚えていたり、計算をする間に桁上りを覚えていたりするのに使う短期記憶能力。学習や仕事で重要な働きをします。
 そして、やはりストレスが高い環境の子供ほど、ワーキングメモリ(一時記憶)の機能が低いという結果でした。

 著者は、こうした脳の変化は、ストレスホルモンが及ぼす悪影響によるものではないかと考えています(神経細胞が、強すぎる反応に耐えられず死滅するという説もあります)。

■以下、感想

 著者は、子供を将来の成功へ導く第一歩は、幼少期に極端なストレスから守ることである、と結論づけています。

 辛い子供時代を送った人ほど、その後の人生も辛い。やりきれない結果ではあります。(そういえば以前、犯罪者の幼少期に、虐待や過度のスパルタ教育が多いことについて書きました)。

 子供への暴力や虐待は論外としても、災害、事故、いじめ、親族の死など、親が努力しても避けられないトラウマもあります。両親の不和などというのも、一種避けようのない災厄かも。

 それでは、強いストレスを受けてしまった子供は、大きなハンデを背負って生きていくしかないのか。
 著者は、親がきちんと向き合い関わることで、子供を逆境の影響から助けることができると述べています。
 詳しくは次回に。

2014年8月17日日曜日

佐世保の高一殺害事件 … モンテッソーリ教育「正常化」の視点から

 前回、佐世保の高一殺害事件について「習い事や勉強で隙間のない生活が、少女を歪めたのではないか」と書きました。その後で、これをモンテッソーリ教育の観点から見ることもできそうだなあ、と気づいたので、補足します。

 モンテッソーリは、こんな言葉を残しています。
「幼いころに心を踏みにじられた人は、大きくなってから必ず復讐します」
 それでは、モンテッソーリのいう心を踏みにじる好意とは何なのでしょうか。

■モンテッソーリの人間観

 このブログで何度も書いてきましたが、モンテッソーリは子供の問題のほとんど全てが、逸脱発達によるものと言っています。乱暴も、落ち着きが無いのも、気が弱いのも、すべては「本来あるべき姿を発揮できないことによる」と。

 人格は手によって作られます。したがって、問題行動をする子供も、手を使う作業に集中することで逸脱が鎮められ、正常化するというのが、モンテッソーリの考えです。
 脳科学的には、集中して試行錯誤することで、意思や自制心を司る前頭前皮質、眼窩前頭皮質が鍛えられるのだと思われます。(「モンテッソーリの言う正常化を脳から考えてみる」)。

 正常化への集中は、

①子供が自分で選んだことに自由に取りかかること
②やり始めたことに続けて取り組むこと
③そのことに全力を傾けること(集中現象)
④以上の過程を通って、満足した表情で自分からやめること

という過程をたどります。
しかしこの過程、親が干渉し過ぎると、うまく辿れないことが多いのです。

■つい親がやってしまう、過干渉

① 親は、計算とかピアノとか「意味のある行動」をさせたいので、「あれをしなさい、これをしなさい」と言いがち。子供が自分で選ぶ機会を奪ってしまうことがあります。

② 子供は満足するまで繰り返し、やりきったと感じたいのに、親はどんどん新しいことをさせようとします。「いつまで同じことをやってるの」と、急かすと、満足するまで繰り返せません。

③子供は全力を傾けて集中したいのに、一挙手一投足を指示したり、うまいとか下手とか評価すると、じっくり集中できません。

 おそらくは、習い事でぎっしりの生活から生まれた今回の事件。
 モンテッソーリの視点からは、正常化の機会を失った未熟な人格が原因になった可能性を指摘できそうです。
 速く成長させたいという親の本能が、子供の成長を妨げるのは、皮肉なことですが…。

■成長のための時間を

 習い事は、子供にとって新しい世界を開くもの。人生を変えるような出会いがあるかもしれません。しかしあまりにも時間を使いすぎると、正常な発達をするための機会を奪ってしまう可能性があります。つめ込まれ、指図され続ける環境では、意志も自制心も育たないのです。
 とくに、敏感期の影響力が強い6歳くらいまでは注意すべきでしょう。

 子供の成長には、教えられる時間だけではなく、自分で自分を育てる時間が必要です。
 常に親の目が行き届くところにいる現代の子供には、意図的に集中の時間を持たせてやる必要がありそうです。

2014年8月13日水曜日

佐世保の高1殺害に思うこと

 佐世保の事件についての論評が、一段落してきました。  「何が原因なのか」という問は、いつものように繰り返されました。おそらくこれまでの事件と同じように、結論を出さないまま終わるだろうと思われます。 ■少女が「できすぎた」わけ  私がこの事件で気になったことは、犯人の少女が「できすぎた」ことでした。  成績は常にトップクラス、スポーツでは国体に出場、美術のコンクールにも入賞する。すごい万能ぶりです。  こんな多岐にわたる能力を発揮するには、相当な時間と努力が必要なことは、誰が考えてもわかります(「一万時間の法則」参照)。  おそらく、幼児期からの熱心な習い事や塾通いの結果なのでしょう。事件報道にも、子供の頃から毎日のように習い事に行っていた、という証言がありました。
 小学校のとき起こした事件は、クラスメートに「勉強ばかりするのはわからん」と言われたことがきっかけでした。勉強にも時間と努力を費やしていたことが見て取れます。  この事件では「テストの点が全てだ」という発言もあったといいますから、高い成績を出すことを求められていたと考えられます。  朝起きて学校にいく。帰ってきてすぐに習い事。戻って勉強。  休む暇もない生活にあったのは、一部の報道にあったような「溺愛」ではなく、期待を押し付け続ける親の姿ではなかったでしょうか。 ■「抑圧された感情は、いつか必ず爆発する」  凶悪事件加害者の生育歴をみていると、いくつかのパターンがあることに気がつきます。虐待やネグレクト、暴力と並んで目立つのが、息をつく暇もなく、しつけや教育を受けてきたケース。  指示や命令に抑えられ続け、溜め込まれた攻撃性が、何かのきっかけで吹き出すのです。  心理学では、抑圧された感情はいつか必ず爆発すると言われています。  小学生の時に小動物などに攻撃性を向けているところから、そのころにはすでに、負の感情が十分に溜まっていたと想像できます。  たしかに、少女にはもともと何らかの素質があったのかもしれません。しかし、もっと余裕のある生活なら、ここまで危険な圧力が高まることはなかったのではないでしょうか。 ■子供の時間は無限ではない  当たり前ですが、子供の時間は有限です。何かに時間を使うということは、何かの時間を失ったということ。  例えば小さい頃からピアノの練習をさせれば、ピアノが弾けるようになるでしょう。しかし、その練習時間分、何かの時間が減っているのです。  その時間は睡眠時間だったかもしれませんし、家族との触れ合いの時間だったかもしれません。心が育つために必要な、遊びの時間だったかもしれません。   ピアノが弾けるという結果は目に見えてわかるのですが、代わりに何を失ったかは見えません。見えないものは、見えるものよりも軽く見られがちです。  昔、消化できないから要らないものと思われていた食物繊維。今、メタボを防ぎ、腸の健康を守る成分として、その重要性を否定する人はいません。
 子供の時間も同じです。大人から見て「役に立つ」ものだけをさせ、無駄を排除しすぎると、思わぬ弊害が待っている。  そんなことを考えさせられた事件でした。

2014年8月6日水曜日

伸びると信じるだけで、子供の能力は伸びる

 キャロル・ドゥエックの本「やればできる!の研究」によれば、能力に対する考え方は、大きく分けて二通りになるそうです。
 能力は生まれつき決まっていて、変わらないとする考え方。
 能力は努力や経験で伸ばすことができるとする考え方。

■生まれつきと考える人、努力や経験と考える人

 能力は生まれつき決まっていると考える人たちを、ドゥエックは「こちこちマインドセット」と呼んでいます。
 この人達にとっては「現在の能力」が、そのまま持って生まれた能力の全てを表すことになります。したがって、能力が低く見えることを恐れ、難しいことを避けて通る傾向があるとのこと。
 また、自分の能力を高く見せたいと、虚勢を張るのも、こうした考えをもつ人に多いとしています。

 能力は伸ばせると考える人たちを「しなやかマインドセット」と呼んでいます。
 この種の人達にとっては、現在の能力は成長の過程を表すに過ぎません。難しい課題も、自分の能力を測る物差しではなく、成長の材料になるのです。

■「努力や経験」と考える人は伸びる!

 追跡調査をすると、能力は変えられると信じている人のほうが、長期的に見て高い能力を示すといいます。

 能力は生まれつきだと思っている人は、現在の能力が可能性の全てと信じているので、努力で伸ばそうという意欲が薄いのです。「今、できないんだから、ずっとできないんだ」と、すぐに諦めてしまうわけ。
 逆に、能力は努力次第で伸びると考えている人は、努力しながら能力を育てられるということ。

 子供に「能力は変わるのだ、練習や経験で伸びるのだ」という「しなやかマインドセット」を持たせてやれたら、大きな財産になるでしょうね。

■反省…

 この話、子育てよりも自分自身のこれまでを振り返って、身にしみるところが大きいです。典型的な「こちこちマインドセット」で、「自分は運動神経が悪い、絵は絶対に描けない、泳ぎも上手くならない」と思い込んで、大人になりましたから。

 しかし大人になってから運動してみたら、そこそこ身体が動くようになってきました。絵も時々描いているうちに、ゆっくりですが上達しますし、子供に付き合ってプールに行っているうちに水泳についてもいろいろわかってきました(すべて「当社比」ですけど)。
 思い込みで諦めていた部分が、本当に大きかったのです。子供には、そんな思いはさせたくありません。

 無理に努力を勧めはしませんが「能力は持っているものではなく、伸ばすもの」という考えだけは教えておきたいと思っています。
 子供が「◯◯ができない!」と言ったときには「今はできない」「今は練習が足りない」と言い直させてみたり。ささやかなことではありますが…。


2014年8月2日土曜日

「えらいね」「賢いね」はマズい褒め方

 子供に自信を持たせるには、褒めて育てるのがいい、と言われます
 そこで「えらいね」、あるいは「賢いね」という言葉を使って褒めたりするわけですが、こうした褒め方をされた子供が、本当に頑張るのかどうか。
 「間違いだらけの子育て」という本の中に、それを確かめた実験があります。

■褒められて心がくじける場合

 まずは子供たちに問題を解かせ、褒めます。
 片方のグループの子供たちには「頑張ったね」「よく考えたね」という褒め方を。
 もう一方の子供たちには「頭が良いね」「賢いね」という褒め方をしました。
 休憩の後、子供たちに新しい問題を出すのですが、ここで「好きなレベルの問題を選んでいいよ」と、選ばせると、先ほどの2つのグループではっきりと差が出たそうです。

 「頑張ったね」「よく考えたね」と言われた子供たちは、先ほどの問題よりも難しい問題を選び、チャレンジしました。
 逆に「頭がいいね」「賢いね」と褒められた子供たちは、先程よりも簡単な、確実に解ける問題しか、解こうとしなかったのです。

■褒め言葉に含まれる言外の意味

 どちらも褒めたはずなのに、どうしてそんなにやる気が変わってしまうのか。
 これは、結果を褒めたか、姿勢を褒めたかの違いだと解釈されています。

 「賢いね」という褒め方は、言外に「問題を解けたから賢い」という意味を含みます。逆に言うと「解けなかったら賢くない」わけです。
 解ける・解けないの結果に自分自身の評価がかかるので、解けないことを恐れるようになったと考えられます。

 逆に「頑張ったね」「よく考えたね」は、努力した姿勢を褒めています。この場合、問題を解けるかどうかは心配する必要がありません。一生懸命頑張れば、それが評価される。その結果、難しい問題にもチャレンジできたのです。

 つまり子供を伸ばすには、結果ではなく努力や挑戦を褒める方が良い、ということになりますね。

■我が家では…

 努力を褒めることが、子供の意欲を高めたり、挑戦する気持ちを支えたりすることは確かなようです。ですから、努力を旨とする方針の家庭なら、この方法を使うことがオススメ。

 では、我が家では、そうやって努力を褒める方法を使っているのか?
 実は、あんまり使っていません。ここから先は、それぞれの家庭の考え方だと思いますが…。

 我が家の方針は「自分の好きなことを、楽しくやって欲しい」です。好きな事なら放っておいても努力するだろうし、好きでないことはそこそこでいい。
 励まして努力させるのは、学校の勉強など、どうしてもやらなければならないことだけにしようと思っています。できればそれもしなくていいように、学習ゲーム・学習マンガを与えてみたり。

 そんなわけで子供を褒めることはあまりなく、何かをやった本人が嬉しそうに報告してきた時に、
「そうか、よかったな」
 と言うのが、一番多く使う褒め言葉かもしれません。あとは、何かしてくれた時の「ありがとう」ですね。。


 さて。
 「やる気」について、さらに突き詰めて研究した学者が、キャロル・S・ドゥエック。次回はドゥエックの本「やればできる!の研究」から、もう少し解説を。



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2014年7月29日火曜日

「ごほうび」には副作用がある

 前回、エサをまくという題名だったのですが、そういえば「エサをまく」にはもうひとつの意味もありましたね。
 「◯◯ができたら、あれを買って上げよう」
 とか、
「これをしてくれたら、◯◯を食べさせてあげる」
 とか。

   こうしたごほうびは、すぐに子供を動かすことができる方法の一つ。
 しかし使いすぎると副作用もあるようです。その副作用とは「何かもらえないと、動かなくなること」

■「ごほうび」が当たり前になると

  子供が部屋を片付けたりするとき、それを仕事だとは思っていませんよね。
 しかし、もし掃除をするたびにごほうびをもらっていると、掃除と報酬が意識の上で結びついてきます。報酬と引き換えに掃除をする、いわば仕事になるわけです。
 仕事と感じたら、利益がないのに掃除をすると、タダ働きした気になってしまいます。こうなると自分から何かをすることは期待できません。
 いいことを勧めているつもりが、かえってやる気を削いでしまうという逆効果。

 心理学的には、こうした「ごほうび」は、予想できないところで与えられるのが良いといいます。
 普通はもらえず、突然もらえる時があると、「ラッキー!」という喜びがあり、意欲が出るとのこと。もらえないのが普通なので、ごほうびがないときのやる気が減ることもありません。

■褒めるのもご褒美のうち

  ご褒美というと、ものやお金を考えがちですが、実は褒め言葉もご褒美のうち。子供を動かすために褒め言葉を多用し過ぎると、褒められる時だけ頑張って、褒められないときには意欲が出ないことに。

  こうした問題は、評価する褒め方の時に出やすいようです。
 子供を認めるには、上から評価する褒め方だけではなく、努力を認めたり、何かが出来た時には一緒に喜んだり、いいことをしてくれた時には感謝したりと、いろんな認め方を考える方が良さそうです。

 そういえば、褒め方1つで子供の成績が上がったり下がったりするという話がありました。次回は、この話を。

2014年7月24日木曜日

子供を伸ばしてやるため、エサをバラまく

 敏感期の特徴は、何かに突き動かされるような一点集中型のエネルギー。自分を育てようという衝動です。
 モンテッソーリ教育では、このような敏感期が見られるのは、だいたい六歳までとしています。  ただ子供の生活を見ていると、敏感期的な行動パターンは、六歳を超えても続いています。そして、学びの基本になっているように思えてきました。


■娘の場合  娘の場合、去年の今頃から急に石に関心をもつようになりました。庭の石を拾ってくることから始まって、図鑑や本を読みあさり、石の即売会に出かけ、クリスマスプレゼントには岩石標本を希望。あげく博物館の岩石採集ハイキングにまで参加させられました。   ところがちょうど一年くらい過ぎた頃から急速に興味が減少。いまでも本人は「石好き」と言ってはいますが、親から見ると、その落差は明白。明らかに熱が冷めています。  ただ、この1年で覚えた知識が消えるわけではありません。石から始まって石器→考古学の一部にまで興味を広げたのは大きな収穫でした。
 本人がやりたくてやっていることですから、親が想像もしていなかったところまで走ってくれました。  考えてみれば、私自身も似たような経験があります。
 仕事は鍼灸マッサージ師ですが、ある時急に、足の骨格に興味が出て、開けても暮れても足の模型と睨み合っていたことがあります。治療の力がついたと実感できたのは、その時。  自分の意志で集中するときにこそ学びが起こる、というモンテッソーリの原則は、6歳では終わらないようです。


■家庭でしか出来ないこと  やれと言われてやることよりも、自分で好きでやることの方が熱心になれるのは、大人も子供も同じです。子供が興味に惹かれて走るときの、あのすごいエネルギーを活かすことは、学校教育ではできません。
 もちろん、塾でも無理。できるのは子供を見ている親だけです。  子供を観察するのがモンテッソーリ教育の基本ですが、その観察は、幼児期だけでは終われないようです。  娘が、次は何に食いつくか。いろんなテレビや図書館の本を見せながら、観察しています。妻はそれを、
「エサをバラまいてる」
 と言います。

2014年7月16日水曜日

英語が世界標準であることの意味

 古い話ならVHSとベータのビデオ戦争。もう少し近づいて、ブルーレイディスク。最近なら、EV車の規格まで、電化製品の歴史は、世界標準の争奪戦です。
 多くの会社が標準化で争うのは、自社の製品規格が世界で通用するようになれば、その後の商売で圧倒的優位に立てるから。規格を制するものは世界を制するのです。  そして今、言葉では英語が世界標準。この意味、わかりますね?


■欧米に有利な世界標準  残念ながら論者を失念したのですが、新聞上で「インターネットは国の格差を固定する」という意見を読んだことがあります。その概略。 「インターネットの公用語は英語なので、英語圏、とくにアメリカの青少年は、専門分野だけ勉強していれば世界に通用する。
 ところが非英語圏の人間は、専門分野と英語の両方を身につけなければならない。学問をする時間が有限である以上、莫大な時間を英語の学習に費やさなければならないのは大きなハンデである。アジア、アフリカ圏の青少年は不利な状況におかれている…」  英語を学ぶのに必要な時間は、文法や発音が英語とどのくらい近いかという理由で決まります。ドイツ語、イタリア語などヨーロッパ圏の人なら、だいたい1000時間でOK。
 日本語は英語から最も遠い言語の一つに分類され、前回書いたとおり、3000時間が必要とされています。  一口に3000時間と言いましたが、これは四年制大学の全授業時間に匹敵します。単純に考えれば、日本人が英語を学び、大学レベルの勉強を終える頃、英語圏の人たちは大学院と博士課程を終えていることに。
 もしネイティブ並みの英語を義務化したら、日本が学問の世界で遅れをとる可能性は極めて高いでしょう。  といって、英語によるコミュニケーションを諦めたら、商売や政治、文化交流で遅れを取る可能性が高い。
 どっちにしても不利である以上、英語の学び方を考える必要があります。


■日本人はどうすればいい?  「一流の人は、両方できてるよ」という声もあるでしょう。しかし、その人達も英語にたくさんの時間を使ってきたはずで、英語がなければ、もっと専門の研究を進めていたかもしれません。  そう考えると「グローバル化!」といってむやみに英語の授業を増やすのは、わざわざハンデを背負いにいくようなもの。日本が今後も発展してゆくには、英語教育の負担を減らすことを考えないといけません。
 実際にできそうな方法は3つあります。  1つ目はネイティブ並みの英語と高度な日本語を操る通訳を、大量に育成する。必要なとき、すぐに頼れるくらいにたくさんいるといいですね。  2つ目に、前回書いたような翻訳機を早く開発し、一般化すること。積極的に予算を割けば、発展を早めることもできそうです。  3つ目は、英語を少しでも簡単に学べるようにすること。
 「聞き流すだけ」とか「3つの単語で」とか、短時間で英語が学べることを提唱する方式はたくさんありますよね。そうした学習法を比較検討して、もっとも短時間で学べる方法を確立することです。3000時間が2000時間になるだけでも、ずいぶん負担が減ります。  その前提として「誰が」「何のために」「どのレベルまでの」英語を必要とするのか目標を策定するべきでしょう。
 全ての日本人が世界で商売し、学術的議論をするなら高度な英語力が必要でしょう。しかし東京オリンピックで外国人に道案内するだけなら予想会話を100文も暗記すれば足りるはず。  何も考えず、単純に英語教育の時間を増やすだけでは、日本は標準化のワナに落ちてしまうかもしれません。

2014年7月13日日曜日

子供に英語を習わせるのは、ギャンブルかもしれない

 前回、超早期の英語教育は無効で、少なくとも幼稚園に入ってからではないか、という話を書きました。
 では、私の家では英語教育をしているのかというと…今のところはしていません。  英語を学ばせることに意味があるという確信がもてないのです。


■英語は世界の共通語という現実  世界の共通語は英語。インターネット上も共通語はほぼ英語。
 この現実は、おそらくあと100年位は続くのではないでしょうか。そういう意味では、英語の重要性は今後も変わりません。  英語が読めれば、世界中の文献を読めます。書ければ、日本語の一億二千万人と比べて、十倍以上の人に読んでもらうことができます。会話できれば、世界のあちこちの人と親しくなれます。もちろん国際的な仕事でも有利。  では、何に確信が持てないのか。
 英語を覚えて話す必要があるかどうかが、わからないのです。


■英語は必要だけど…  私がそう考える理由は、自動翻訳の進歩です。
 私の娘が、今8歳。仮に大学まで出て、社会にでるまで、15年弱。  コンピュータには「ムーアの法則」と言われる法則があります。部品の集積度が、一年半で二倍になるという法則ですが、コンピュータの処理能力も、ほぼこれに連動して向上してきています。15年あれば、2の10乗、つまり1024倍。  実際、15年前のコンピュータの状況を考えてみると、インターネットはまだ電話回線でつながっていて、WEBには動画が無く、携帯電話はようやく一般に普及し始めたばかりでした。
 処理能力と、記憶容量の大きさは、今と比べると隔世の感があります。  今のところの翻訳ソフトは、逐語訳に毛が生えた程度。翻訳者が、辞書をひく手間を省くために使っているのが現状です。
 しかし、その翻訳ソフトがこれから15年でどこまで発展するか。もし会話をリアルタイムで翻訳できたり、楽に読める程度の文書翻訳ができるようになっていたら、英語が話せるスキルの価値はどうなるでしょうか?  中途半場に話せる程度の能力なら、あってもなくても同じになるでしょう。しかも機械の進歩とともに価値は下がってゆくはず。

 もちろん完全にネイティブ並に話せる人の存在価値は変わりません。他の分野と同様、極めた人にだけ価値があります(ただし、英語が話せるだけの人は英語国家にいくらでもいるので、英語と同時に高度な日本語能力を身に付けていることが前提)。


■3000時間を何に使うか  英語は、できる方がいいに決まっています。
 機械を通して会話するより、直接会話の方が親しくなれますし、誤解も少ない。機械では伝わらない微妙なニュアンスもあるでしょう。文章だって、翻訳機に頼らないで読める方が効率がいい。  でも、そうしたメリットは英語を学ぶコストと引き換えです。
 日本人がネイティブ並みに英語を使えるようになるためには、約3000時間が必要だと言われています。これは毎週4時間の勉強を15年、夏休みも冬休みもなく続けて、ようやく達成できる時間です(ちなみに現在の、中学、高校、大学の英語の授業を全部合わせても、約500時間とのこと。日本人が英語が苦手なのは、単に練習量が足りないという説もあります)。  3000時間を英語に使えば、どこかでその3000時間が減ります。読書が減るかもしれない。体を動かすことが減るかもしれない。経営やプログラミングを学ぶ時間が減るかもしれない…。

 それなら、英語は機械の発達に期待し、その時間で別の知識やスキルを身に付けるほうがいい、という考え方もできます。将来、日本でずっと暮らすなら、英語を後回しにする方が得。

 一方、将来海外で生活するなら、英語が話せる能力は必要だから、英語を学ぶ方がいい。
 つまるところ、コストと得られるものを比較して、どちらをとるかのギャンブルです。  私は今のところ、無理に英語を習わせるほどの決心がついていません無理に押し付けて、英語に拒否反応を持ったら元も子もない、という理由もありますが…)。

 子供には、きっかけになるように面白半分の英語ゲームは与えていますが、それほどノッていない様子当分は、興味をもつまで放っておき、本人が好きな読書や工作に時間を使わせるつもりです。
 英語学習に関しては、日本の将来に関わるもっと大きな問題があります。それについては次回。

2014年7月9日水曜日

英語の超早期教育は有効か

 前回、脳の発達が三歳までというのは迷信で、知識を入れるのを急ぐ必要はないという話をしました。


 それでも急いで教えたくなるもののひとつに、英語がありますね。とくに日本人は成長するとLとR、BとVの発音がわからなくなるので、幼いうちにCDやDVDで教育しようとしたりするものですが…。


 ここで、ショッキングなお知らせがあります。
 幼児は、CD、DVDでは言葉を覚えないのです。


■言葉は、聞いても覚えない
 「間違いだらけの子育て」という本があります。いろんな子育ての方法論が、どんな結果を生むか、実験と統計を中心に書いた、面白い本です。その中に、幼児がどのように言葉を覚えるのか検証した結果がありました。


 以前は、たくさんの言葉を聞いた子供のほうが、早く言葉を覚えると考えられていました。親がたくさんの言葉を知っているとか、たくさん話しかけているとかですね。
 ところが実際に調べてみると、聞いた言葉の数で決まるにしてはおかしい部分が沢山出てくるのです。


 例えばテレビを長く見ている子供。たくさんの言葉を聞いているのですが、言葉の発達は遅れがち。
 また第一子と、第二子以降では、あとに生まれた子供のほうが、家の中での会話が増えているので、たくさんの言葉を聞いているはず。ところが大抵の場合、言葉を覚えるのが早いのは、第一子です。


 では、何が言葉の発達に関わっているのか。
 実験の結果わかったのは、子供の出した声に、周囲が反応しているかどうかでした。


■言葉を覚える前に、会話している
 赤ちゃんが「クー」とか、「アー」とか、まだ言葉とも言えないような声を出すことがあります。この声が出た時に、親が返事をしたり、抱き上げたりする回数が多いほど、言葉を覚えるのが早かったそうです。


 赤ちゃんは自分の出した声に反応がもらえたことで、声に意味があると理解し、さらに声を出します。
 親は「アー」という単純な音よりも、「マンマ」のような言葉に近い音に、より強く反応しますよね。すると赤ちゃんも、より反応がもらえる、言葉に近い音を出すようにシフトしていきます。こうして、親と子の会話(?)を通じて、赤ちゃんは言葉を覚えていくのです。

 テレビやCDは、赤ちゃんがどんな声を出そうが、反応しません。赤ちゃんの行動と関係なく流れている音は、ただの雑音として認識されてしまいます。覚えようという動機が起きないので、言葉として覚えない、という論旨でした。

■では、英語を学ぶには?
 この本にあるのと同じ内容の実験を、NHKで見たことがあります。幼児の前で外国語の授業を行ったケースと、それを録画したものをテレビで見せたケース。
 目の前で行われた授業では単語を覚えたのに対し、テレビでは全く(驚くほど全く)、記憶していませんでした。
 テレビ、DVDでは言葉を覚えないという説は、確かなようです。

 さて。
 英語圏の子供たちが英語の発音を覚えるのは、英語っぽい音を出した時に反応を返してもらえるからです。英語の発音に反応できない日本人では、早期の英語教育は無理、ということになるのかも。
 もちろん、ネイティブの人に本格的にかまってもらえば、不可能ではないでしょうが…。


 日本人の子供が英語を学べるのは、ある程度大きくなって「これは英語という言葉だ、聞きなれないけれども、意味のある音なんだ」ということが理解できてからでしょう。早くても、幼稚園児くらいからでしょうか。

 そのためにはまず、理解するだけの日本語を覚えてから、ということになりそうですね。



2014年7月5日土曜日

「脳は三歳までに作られる」は、間違い

「人間の脳は、三歳までに90%作られる」
 という話を聞いたことはありませんか?
 だから、三歳までに多くのことを教えるのがいい、というのが、いわゆる超早期教育の考え方です。


 実はこの説、数十年前の古い学説です。
 たしかに、脳細胞のつながりが活発なのは、三歳頃までです。昔は脳の回路がつながれば「完成」だと考えられていたので、この時期に脳が完成すると言われていたのです。

 しかし現代では「神経回路がつながる = 脳の完成」ではないことがわかってきました。つながりの数よりも、いかに整理するかの方が重要だということになっています。


■神経を道に例えると
 脳の回路は、つながった当初は、細くて不安定です。
 例えるなら、野生動物が通った、獣道のようなもの。人間が一人歩くのがやっとで、車などはとても通れません。しかも、獣道は適当にできあがるので、あっちにもこっちにもごちゃごちゃ通っていて、迷いやすい状態です。

 そこで、道を整理し、効率化します。
 通りやすく、距離が近く、便利な町と町を結ぶ道を中心に整備すれば、獣道とは比べ物にならない速さで、大量のものが運べるようになりますね。

 神経の回路も獣道と同じで、使う神経を強化、使わない回路を廃止して、効率的な神経回路が作られます。さらに神経細胞がミエリン鞘というものに覆われて高速道路にまで発展。
 この選別と強化によって、脳が完成すると考えるのが、現代脳科学。

 たしかに、神経のつながり数は、大人よりも三歳の子供の方が多いです。しかし、無駄なつながりの多い子供の脳よりも、整理された大人の脳の方がはるかに高性能です。

 脳の本格的な成長は、三歳で終わったりしません。脳の柔らかさが必要と言われる英語の発音、絶対音感などにしても、臨界期は十歳くらい。

 また、脳の発達は全体が同時に進むわけではなく「古い脳」から「新しい脳」へと向かいます。人格の脳として有名な前頭葉は、十代から二十代で盛んに発達することがわかっています。


■急ぐよりも大事なこと
 そう考えると、三歳までにいろんな知識を詰め込む必要はない事がわかります。

 発達は古い脳から新しい脳へと向かいますので、急ぐあまり机に座らせて勉強させていると、その時期に発達すべき脳を育てそこねるモンテッソーリ教育で言えば、敏感期を逃してしまう)可能性も。むしろ、三歳までは古い脳をしっかり育てておくほうがいいのです。

 不要な先取りをするよりも、その時期に必要なことを、しっかり押さえておきたいものです。

2014年6月27日金曜日

「夫婦関係は育児初期に決まる」という驚きの調査結果

 「個性はどう育つか」(菅原ますみ 大修館書店)という本を読みました。中心テーマである個性については

・子供には生まれつきの個性があり、環境と双方向的に関わって、最終的な個性を作る。
・子供の個性をプラスに捉えるか、マイナスに捉えるかで親の対応が変わり、最終的な個性に影響する。
・虐待などの暴力は、明らかに社会適応性を悪くする。

 といった結論でしたね。

 この結論自体も興味深いのですが、個人的に面白いと感じたのは、最終章。


■夫が協力的だと夫婦関係良好?
 子供の安定には、夫婦関係の安定が必要だと調査を示したあとで、夫婦の愛情が年月とともにどのように変化するか、調査をしたのです。その結果、

・夫から妻への愛情は、中年までじわじわ上がり、その後、下がらない。
妻から夫への愛情は、中年以降、急降下する。

 ショッキングなデータがでましたねー。CMの「亭主元気で留守がいい」そのまんまです。中年過ぎて、濡れ落ち葉と言われる男の姿が見えるような恐ろしい結果。  では、何がその急降下に影響するか。  12年に渡る追跡調査の結論は「出産から育児の初期、夫が妻に協力していたかどうか」でした。
 この時期、協力と会話が多かった場合、妻から夫への愛情は上昇し、しかも下がりません。協力も会話も少なかった夫の評価はここから下がり、それっきり戻りません。
 まさにこの数年が、夫婦仲の分け目だったという話。

 この話を読んだ時「危ない橋を渡ってきたなあ」と思いましたね。

 言われてみれば、うちのヨメは「最初の三ヶ月くらい、記憶が無い」と言ってました。それだけ体力的に負担があったのでしょう。

 私はたまたま育児が趣味になってしまったので、ギリギリ危ないところを踏みとどまったようですね。

 無事にやってます。今のとこ。

2014年6月21日土曜日

怒らない指導「鍵穴方式」

 子供が生まれた時、これだけはやるまいと決めたことが3つありました。
「怒鳴らない、叩かない、侮辱しない」
 叩くことは論外としても、怒鳴ることや侮辱することが、良い方法だとは思えなかったからです。

 親としては大声で怒鳴ったり、罵ったりすると、子供をきちんと指導しているような充実感があります。しかし、子供の行動を望ましい方向に修正できているでしょうか?

  最初のうちこそ、親の剣幕に驚いて、言うことを聞くでしょう。しかし、すぐに慣れてしまいます。
「親の小言と敵の矢は、頭を下げてやり過ごせ」
 という言葉があるように、親が激高しているときほど子供は冷静になり、ただ聞き流しているものです。 

 怒鳴らず、怒らず指導する方法はいろいろあると思いますが、一つの例として、ウチで使っている方法を紹介します。

 例えば我が家では、子供が
「水」
 と言っても、水を出しません。
「水をください、って言って」
 と訂正が入ります。それでも言わない時は、
「水をください、って言わないと汲みません。言うのが嫌なら、自分で汲んで」
 と宣言します。
 子供を叱ることはありません。しかし宣言した通り、言うまでは汲みません。

 子供が親の話を聞かないで、自分の話だけしようとするときも、
「こちらの話を最後まで聞かないと、返事をしません」
 と、宣言します。怒らず、ただ宣言した通りに振る舞うだけ。

 これは交換条件ではありません。
 物事をストップさせて、必要な行動をとった時にだけ解除する、停止・解除条件です。決まった行動(鍵)でしか解除できないところから、我が家では「鍵穴方式」と言っています。

 鍵穴方式の長所は、子供に選択の余地があること。親の話に納得できなければ、従わなくてもいいのです。そのかわり、自分で水を汲んだり、話を聞いてもらうことを諦めなくてはなりませんが。
 もっとも、それほど難しい解除条件を出すことはないので、たいていはすぐに納得します。それが何度か繰り返されると、最初から正しい言葉を使うようになり、やがて習慣になって言う必要もなくなります。  「やってのける 意志力を使わずに自分を動かす」(ハイディ・グラント・ハルバーソン著 大和書房)という本にあったのですが、人間のやる気は、選択権の有無に関係しているそうです。何かを自分で選ぶと、やる気が増えるのです。  子供に指示をする場合にも、選択権を持たせることで、反感が減るように感じますね。

 この方法は、礼儀や話し方など、ルール的なことを教えるのに便利です。
 その一方、 ・時間の余裕がない時 ・最初から選択の余地がない場合(暴力はダメ、など) ・うっかりミス(意図的に修正できないので)  には使えません。

 使える条件は限られますが、一度試してみてはいかがでしょうか?