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2012年10月17日水曜日

子供のウソを、あえて信じてみます


 前回書いた「子供に結果を体験させる」方法は、ウソのしつけにも使えます。

 ウソをつくことがいけないのは、そのウソが真実としてまかり通ってしまうから。だから「ウソをつくな」という代わりに、子供のウソをあえて真実として扱い、子供が困るまで押し通してやるわけ。
 
 ある日の食事時、娘が「もうおなかいっぱい。残していい?」といいました。見ると、皿の上に残っているのは嫌いなものだけ。本当におなかがいっぱいかどうかは見てればわかりますから、
「いいよ、残しなさい」
 と言いました。
「はーい」
 とニコニコの娘。それを見計らって、
「さあ、デザートだ」
 とチョコレートやビスケットを取り出しました。あわてたのは娘。食事を残さず食べたときだけデザートというルールなので、さっき残した皿にとりかかろうとします。
「おなかいっぱいだから、無理に食べなくていいよ」
 と皿を取り上げてしまうと、娘は「まだ食べられる!」と言い張りました。

 ここで
「ウソをつくからだ!」
 という叱り方もできるのですが、そこはあえて叱りません。
「さっき、おなかいっぱいって言ったよね。それともウソだった?」
 子供でも、ウソという言葉はプライドが許さないらしいです。涙目になりながらも、納得しました。
 まあ、一時間くらいたってから「そろそろおなかが空いたかな」と水を向けてやるのは、やっぱり甘いところ。

 ウソが本当に怖いのは、ばれた時よりばれないとき。その怖さを幼いうちに体験すれば、ウソをつくことの意味がわかるのではないかと思います。


 とはいうものの、娘はもともとあまりウソはつきませんでした。
「好きな食べ物はキノコです」という、何のためにつくのか分からないウソをつくくらいで(本当は嫌い。とくにエノキとナメコが大嫌い)。

 ウソが少なかった理由を考えると、あまり叱りすぎなかったせいかもしれません。
 三歳、四歳くらいまでの子供のウソは大半が身を守ろうとするものです。だから強く叱られれば叱られるほど、隠すためのウソは増えます。失敗などしたときにも、あまり叱りすぎないこと。罰も原状回復(落書きをしたなら自分で消させる、ものを壊したら自分で片づけさせる)を基本にしておけば十分ではないかと思います。

 ところで娘ですが、5歳になったある日の朝食時に突然、
「お父さんごめんなさい。ウソついてました」
 と言い出しました。こちらはぜんぜん心当たりがありません。
「ウソってなに?」
 と尋ねると、
「…ほんとうは、キノコ嫌いです」

 うん、知ってた。

2012年10月9日火曜日

子どもに叱り方をダメ出しされました

 娘は本が好きで、絵本でもマンガでも手あたり次第に読みます。大人用の本でも、絵やマンガが入っていれば読もうとします。愛読書は「究極超人あーる」(この題名を見てわかった人は、きっとアラフォーの男性)

 あまりにも本を読むことに引っかかるので、ものごとが進まないこともしばしば。そこで先日、妻が娘を叱ったそうです。
 すると娘が
「その叱り方はダメ。これ読んで勉強して」
 と言って、「子供の心のコーチング 実践編」(菅原裕子)という本を差し出したとのこと。幼稚園児のくせに…。
「ちょっとイラッときた」とは妻の弁。


 「子どもの心のコーチング 実践編」は、マンガ入りの子育て本です。
 著者は人を育てる技術、コーチングの専門家で、「自ら問題解決できる子を育てる」方法を書いています。対象は主に小学生以上の子どもを持つ親。
 メインになるのは2つ。子どもの問題と親の問題を分けること。子どもに自分で考えさせ、結果の責任をとらせることです。

 例えば、朝起きてこない子どもに対しては「起きるのも遅刻するのも、本来は子どもの問題で、親の問題ではない」と考えます。
 親は「子どもが遅刻したら恥ずかしい」と、起こしてしまいがち。そうすると子どもは、遅刻をせずにすむので、遅刻という苦い結果を体験することが出来ません。ひいては正しいルールを学ぶチャンスを失ってしまいます。

 そこで、子どもに責任を返し、「これからは起こさないから、自分で起きよう。そのために何か必要な物はある?」と問いかけます。目覚ましが必要だと言ったら買ってやる。その上で、本当に起こさないことを徹底します。
 遅刻して恥をかいたら、その結果を子ども自身が体験して学ぶでしょう。それによって自分で考え、実行する事ができるようになるというのです。

 この方法の便利なところは、子どもが自分で学んでくれることです。
 子どもにルールを教えようとするときには、つい叱って、せかして、指示を飛ばしまくったりするもの。しかし親が代わりに考えてしまうと、子どもに責任感が育ちません。
 必要な行動と、それをしないことによる結果を教えるのが親の役目。あとは体験を通して、叱らなくても自分で学んでくれます。

 わが家の例。3歳くらいのころ、癇癪を起こして親を叩くことがありました。そういうとき、「叩くな」という代わりに「叩かれたら嫌だ」と伝えました。それでも叩こうとしたら「叩かれるのは嫌だからあっちに行く」と子どもを置き去りにして去ることにしていました。もちろん、追いかけてきてもかまってやらない。
 叩かれるのは嫌だということ、叩くと人が離れてゆくという結果を体験することで、すぐに叩く癖はなくなりました。親としても、叱るよりずっと気楽でした。

 ちなみに「子どもの心のコーチング 実践編」の他に、マンガの入っていない「子どもの心のコーチング」が有ります。内容はほとんど変わらないので、どちらを読まれても良いと思います。


2012年10月5日金曜日

子供に甘いのが、日本の伝統でした


 日本は昔から子供をかわいがる国だったようです。
 幕末に日本にきた外国人が、世界で一番子供に甘い国だと表現するくらい。
 いわく、赤ちゃんは常時だっこやおんぶされており、放っておかれることがない。大人は子供とよく遊び、声高に叱ることもほとんどない。
「母親にだっこされている子供が、芋をかじるのと交互におっぱいを飲んでいた」という微笑ましい記述もありました。現代から見ても、大甘に甘い育て方です
 
 武士道の教科書とも言われる「葉隠」に、子育て論があります。
 「武士道とは死ぬことと見つけたり」のフレーズで有名な厳しい本だから、子育てについてもさぞやスパルタかと思えば、
「幼いときから勇気を勧め、おどしたりだましたりしてはならない。(略)泣きやませようとして怖い話などするのはもってのほかである。(略)幼いときに強く叱ると引っ込み思案になってしまうから気をつけよ」
 これがあの「早く死ぬ方に片付くばかりなり」の本とはとても思えない気遣いぶり。

 こうして甘く育てられた子供たちが、どんな大人になったか。甘やかしたらワガママになるんじゃないかと思われがちですが、外国人たちは口をそろえて「日本人は、他のどの国民よりも礼儀正しく、親切だった」といいます。
 甘く育てられたのに親切だったのか?
 いや、甘く育てられたからこそ、親切だったのでしょう。

 モンテッソーリは子供の特長として「吸収する力」をあげています。とくに三歳までは周りの環境をそのまま吸収するとのこと。
 いくら礼儀作法を仕込んでも、横暴な態度で教えれば、子供は横暴な態度を覚えます。体罰を使って教えれば、「いうことを聞かない相手は叩いてもいい」と覚えるでしょう。
 教える内容よりも、態度のほうが重要かもしれないのです。親の姿がそのまま子どもの将来の姿になると思えば、どうしても寛容に、根気強くならざるを得ません。そうして関係をしっかり築き、しかるのちに教えるべきことを教えていくのが、日本の伝統だったようです。

 怖い父親、厳しいしつけという日本的子育てのイメージは、実は明治以降のもの。西洋の子育て理論が持ち込まれて来てからのようです。
 子供中心主義といわれる昨今。実は日本の伝統的子育てに戻っているだけなのです。

2012年10月1日月曜日

「我慢」という言葉は誤用だったんですよ


 前回、我慢について書きましたがそれについてのトリビアを1つ。 

 我慢の「我」は、「われ」。「慢」という字は
①心がゆるんでしまりがない
②速度や進行がだらだらと遅い
③他を見くびっておごる(YAHOO辞書)

 悪い意味しかありません。耐えるという意味もありません。
 したがって、字の意味通りで言えば「ワガママ」と変わらない意味になってしまいます。
 これが昔から疑問だったのですが、最近謎が解けました。教えてくれたのは下のホームページ。

浄土真宗西法寺「仏教の言葉」

 元々は仏教用語だったんですね。意味はやっぱり「おごり高ぶる」。仏教的には「我」はよくないとされるので、自慢以上に悪い意味だそうです。それが「我が強い」→「意志が強い」→「耐える」という意味の変遷を経て、今の意味になったのです。

 先日「にやける」という言葉について76.5%の人が誤用しているというニュースがありましたが(「なよなよしている」が本来の意味。「にやにや笑い」が誤用)昔から誤用があったんだと思えば、感慨深いものがありますね。