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2014年12月22日月曜日

二度と戻らないプリキュアショー

 公園などで、親子連れに出会うことがあります。まだ一歳そこそこの、ようやく歩けるようになった子供が、お母さんと遊んでいました。両手を前につきだして、倒れそうで倒れない、一歳時独特の歩き方。ああ、あんな頃もあったなあ、としみじみ思い出します。

 つい先日生まれたばかりだと思っていた子供が、もう八歳。時間のすぎるのは早いと実感しますね。そして時間は、過ぎてしまったら戻りません。

■永遠の謎、プリキュアショー


 ようやく文字が書けるようになったころなので、5歳くらいだったでしょうか。娘が、ピンク色の小さな紙を持ってきました。書いてあったのは

「プリキュアがくる! プリキュア ステージショー」

 なんと、招待券でした。
 娘はプリキュアのテレビは怖がって見ないのですが、衣装は大好き。このころ、ピンク色の紙を使って服をつくるのが彼女のブームでした。ステッキも持って、すっかりその気です。
 歌うのか、踊るのか。バカ親としては、実に楽しみです。ところが、時間が遅すぎました。どんなに遅くても9時には寝かせるつもりが、すでに9時5分前。
「わかった、ショーは見たいけど、明日にしような」
 家族にチケットを配り終えた娘は、素直に寝に行きました。

 次の日。

「ステージショーは?」
 と聞いたのですが、
「え?」
 みたいな顔をされました。どうやらもう、興味がなくなってしまった様子。むなしく残る手元のチケット。その後、彼女がステージショーを行うことはありませんでした。

 二度とは戻らない時間。こんなことが起こるのも、子育てです。可愛い姿は、むりしてでも見なくてはならないと実感した事件でした。
 それにしても、どんなステージショーになるはずだったんでしょう。永遠の謎です。

2014年12月20日土曜日

たまたま … 失敗を叱ることで、子供は伸びるのか?

 先日読んだ本が面白かったので、その話。
 「たまたま―日常に潜む偶然を科学する」という本です。

 単なる偶然を、まるで意味があるかのように勘違いしてしまうケースを解説した本です。


 印象に残っているのが、厳しい飛行教官の話。彼は、自分の生徒たちを厳しく怒鳴りつけることで有名だったそうです。いわく、
「生徒は褒めると気が緩んで失敗する。叱りつければ、失敗が減って上達する」
 というのです。一見、わかりやすく見える意見。

 しかし、この本を書いている科学者は、それは単なる偶然にすぎないといいます。

■どんなときに叱って、どんな時に褒めている?

生徒の実力を、仮に100としましょう。もちろん、いつも実力通りに飛行機を飛ばせるわけではありません。70くらいの力しか出せない時もあれば、130の力が出せる時もあります。これは、偶然によるばらつきです。

 教官が生徒を叱るとしたら、彼が70の力しか出せなかった時でしょう。叱られた彼は、次の時にはいくつの力を出すでしょうか? もともと100の力があるのですから、かなりの確率で100前後で飛ぶはずです。しかし教官は「叱ったから上手くなった」と考えます。

 逆に、彼が130の力を出したら、教官は褒めるでしょう。しかし褒められた彼が次に飛ぶときは、もともとの実力、100前後で飛ぶ可能性が高いです。教官は「褒めたからダメになった」と判断するでしょう。

■結果で一喜一憂しない

つまり、最初に上手く行かなかった(叱られた)場合、その次にはマシな結果が出るので、叱られて上達したように見えるのです。逆に、上手くできた(褒められた)後には、低い結果が出る可能性が高いので、褒めると気が緩むように見えるのです。

 つまり、褒められたり叱られたりすることと関係ない実力のばらつきを、褒めたり叱ったりの結果だと考えているところが間違い、ということ。

 この話、子供を育てるときにも覚えていて良さそうです。
 親にとっても、子供を叱るのはストレスのはず。気楽に過ごせるなら、そのほうがいいに決まってますよね。

2014年12月2日火曜日

二番じゃダメなんですか?

 題名の言葉、民主党政権の仕分けで出ました。流行語にもなりましたね。
 技術や商売の世界では、ナンバーワンは極めて有利。特許や広告効果などを考えれば、十分に意味があります。

 では、子育ての時は?
 親としては子供に優秀になってほしいと思うもの。とはいえ、
「1番でなくちゃ、意味が無い!」
 とまでいうと、子供を不幸にする呪いになります。

■テレビ・ネット時代の不幸

 昔はよかったのです。人間の村というのは、150人位の規模であった時代が長かったらしいのですが、この人数で「何かで一番になれ!」というのは、わりと簡単な事。
「村一番の美人」
「村一番の足の早さ」
「村一番の知恵者」
 などなど、何かの分野を限れば、すぐに一番になれます。集団の中で自分の長所を認識し、自信を持つことができるわけです。

 ところが、テレビやインターネットがあると、そうはいきません。世界中の情報が入ってきますので、一番になるのは極めて難しくなります。
 近所で一番の美人でも、テレビの中にはそれ以上の美人がゴロゴロ。足の早さの一番は世界陸上で決定されるし、頭のいい人は、いくらでもいる。

 そんな時代に「一番でなくちゃ、意味が無い」という価値観を持てば、どう考えても辛いだけ。
 「どうせ一番になんかなれないし、意味が無いなら、やる価値がないよね」と、努力そのものから逃げてしまえば、本来出せるはずだった力も、出せなくなってしまいます。

■幸せのもとは、身近な人間の認証
 
 「もともと特別なオンリーワン!」というのも、流行りました。多分、子供の幸せを思うなら、ナンバーワンじゃなくて、オンリーワン。

 ただ誤解してはいけないのですが、オンリーワンは「個性的」という意味ではありません。これだけたくさんの人がいる中で、誰とも違う個性があるなんて、ありえないことです。
「人と違っていなければいけない」
 というのでは、ナンバーワンのときと同じで、ムダなプレッシャーになるだけ。

 普通に手に入れられるオンリーワンは、身近な人間関係の中にあります。親から見て、友達から見てなど、近くの人が見て、かけがえのない、たった1人という意味。これなら、誰でも本当の意味でオンリーワンになれます。
 オンリーワンの自分の価値を信じられる子供は、勝ち負けや人との比較といった、外部の要因に左右されること無く、自分の能力を伸ばしていけるのではないでしょうか。

 多くの育児書が、子供を甘えさせること、自己肯定感を育てることの重要性を語っているのは、そういうことではないかと思うのです。
 

2014年11月12日水曜日

泥・水・練消し・ダイラタンシー流体

 「ダイラタンシー」をご存知ですか? テレビの科学番組などで、有名になりました。
 片栗粉に適量の水を加えると、ドロっとした状態になります。これを手で掴むと硬くなり、丸めて団子にしたりできます。ところが、手を広げた瞬間にまたドロっと流れてしまう。
 このように、「圧力がかかった時には固く、圧力がかかっていない時には液体化して流れる」状態のものを、ダイラタンシー流体というそうです。テレビでは「でんじろう先生」が、その上を歩くという実験をやってました。

 先日、子供のリクエストで片栗粉のダイラタンシー流体を作りました。確かに、ぎゅっと握ると団子になり、手を広げるとダラっと流れます。指先で混ぜるときも、ゆっくりだと軽く動くのに、早くすると急に固くなり、砕けて飛びます。不思議な感触。

 作った流体を子供に渡して、べつの用事をしていました。子供は飽きること無く、片栗粉をかき回しています。一時間…二時間…。時々、片栗粉が乾いたと言って水を足しに来る以外は、遊び続けています。
 夕食の時間になって「明日も遊ぶから残しといて」と言って終わりました。もちろん次の日もその調子。

 何が面白いのかと聞くと、感触が面白いといいます。水の量で触った感じが変わるのも楽しいとか。言われてみれば、普段から消しゴムのかすを練ってみたり、新聞紙の紙粘土を作ることにこだわったりと、手の感触に関わることが好きです。

 手先の感覚、操作は、敏感期の子供に重要である、というのが、モンテッソーリ教育の理論です。考えてみれば、昔から子どもといえば泥遊び、水遊びが好きなもの。そういう微妙な感触との関わりは、子供時代を通じて必要なのかもしれません。

 そんなわけで、ダイラタンシー流体を作ってみたい方のために、作り方を紹介しているサイトにリンクを。

ダイラタンシー流体の作り方

2014年9月20日土曜日

命の教育って、迷いますよね

 先日、娘が
「お父さん、見て見て! 実験!」
 と言って、水の入ったプラスチックボトルを持ってきました。
 よく見ると、直径1センチくらいの気泡があり、何か黒い点が。
「これだけの空気で、アリがどれだけ生きられるか、実験!」
 なるほど、気泡の中にアリが浮いています。
 「かわいそうだから出してやれ」と言いかけたところで、言葉が止まってしまいました。

■都合に合わせて基準が変わる…

 つい数日前、家に入ってくるアリを退治するためにホウ酸砂糖を設置しました。効果てきめんで、庭には大量のアリの死骸が。子供と「すごい効果だなー」と感心したところでした。殺虫剤で大量にアリを殺しておいて、実験はダメという説明が難しい。

 無駄に殺さない、というのが私の信条ではありますが、空気の重要性を調べたいという実験も、意味が無いとは言えません。結局、
「アリに、きちんと感謝するように」
 という、ななめ上の返事をするしかありませんでした。

■学びの機会と、生き物の生命

 生き物の命をどう教えるか、という問題は難しいです。
 例えば、子供がカメや金魚を飼う時。きちんと世話をしないと死んでしまうので、責任感を学ぶ良いチャンスです。

 子供は結果を予測するのが苦手です。世話しないと死ぬよ、と言っても、実際に死ぬのを見るまではその重大性がわかりません。
 本当の意味で責任を学ばせるには、世話を怠って、生き物が死ぬことが必要です(先日書いた日記と同じですね)。そうしてこそ、はじめて責任を負うことの意味がわかります。生き物には、教育のために死んでもらうことになります。

 しかし、死ぬとわかっていて、黙って見ているのは、なかなかできないこと。こちらも情がうつるので、つい口出しして、世話をさせてしまいます。恥ずかしながら、まだ子供が世話をしないために死んだ生き物はいません…。

 この問題は、迷いながらやっていくしかないのかもしれません。

■さて、結果は

 実験のアリですが、24時間たってもまだ生きていました。思った以上に、少ない酸素で生きられるようです。その後、中の空気を完全に抜くと、すぐに動かなくなったとのことでした。
 娘、もう一つ発見。
「お父さん、アリって、死ぬと沈むよ!」

 これも、科学する心の現れということで…。

2014年9月17日水曜日

三年習うより、三年師を探せ、という箴言

 なんであれ、子供の頃から習い事をさせれば、上達すると考えますよね。
 「一万時間の法則」で書いたように、能力は練習時間で決まることが多いので、それなりに根拠が有ります。
 ただ、それがいつもうまくいくわけではない…と、自分自身の体験から思います。

■習うことでかえって嫌いになることも

 私が幼稚園児の頃、習字を習いに行っていました。
 けっこう大きな習字教室だったのですが、先生がちょっとキツイ人。いつも怒られるか嫌味を言われるかだったので嫌になり、小学校二年生でやめてしまいました。ついでに習字も大嫌いになり、
 「字の形にこだわってるのは、心が歪んでるからだ」
 などと、負け惜しみを言っていたほど。

 兄と私がその教室に通ったのですが、二人とも字をきれいに書こうという意欲がないため、すっかり悪筆になってしまいました。
 弟だけは習字教室に行かなかったのですが、その弟が一番字がきれい、という逆転現象が起きてしまいました。

■好きこそものの上手なれ

 思うのですが、ある人にとって良い先生が、別の人にとっても良い先生とはかぎりません。とくに、初心者と上級者では必要な要素が違ってきます。

 上級者の場合は、先生がどれだけ高い技術を持っていて、見せることができるかが問題になります。
 一方、初心者の場合には、それほど高い技術は必要ありません。基本をきっちり教えることができれば、初心者の先生としての技術は十分です。
 むしろ、技術よりも重要なのは、習い事を好きにさせられるかどうかでしょう。

 昔から「好きこそものの上手なれ」という言葉がありますね。好きなものに対しては、やれと言われなくても自ら努力して、伸びていくもの。
 だからこそ、初心者の指導をする先生は、子供の興味を引き出し、好きにさせることが最優先になります。粗暴だったり、感情の安定が悪い先生はもってのほか。退屈な教え方をする先生も避けたいものです。

 子供に習い事をさせるなら、ただ先生任せにしていてはいけません。
 先生がどんなふうに指導するかを見て、必要なら先生を変えるくらいの覚悟必要です。
 お金と時間を使って嫌いにさせるほど、ムダなことはありませんから。

2014年9月9日火曜日

夏休みの日記を、子供に自己管理させてみた

 日記の宿題。
 子供の学校は夏休み以外でも毎日、日記の宿題があって、それを書かせるのが一苦労です。

 当たり前ですが、子供はそんなもの書きたくありませんから、なんとかギリギリまで逃げたいわけです。しかたなく「日記を終わらせてからテレビ」とか、「日記を終わらせてからマンガ」というように、先行条件にして、書かせていました。

 が、ある日、考えました。

■自分で考えて行動できる人になってほしい
 
 親が急かして書かせても、それは人の指示に従う訓練にしかなりません。自分で自分の行動を決めることはないので、いわば使われる訓練です。
 将来的には、自分でやるべきことを判断して、行動できるようになって欲しい。長い目で見て、親が書かせることはためにならないと判断しました。

 以前に紹介した本「子供の心のコーチング」で、「遅刻するのは子供の問題であって、親の問題ではない。問題を子供に返して、失敗から学ばせる」と書いてあったのを思い出し、妻と相談。
「よし、子供に任せよう!」
 と決めました。自分でやってみて、間に合わなかった体験を繰り返すことで、自分の行動を律することを覚えて欲しかったのです。

 子供に「これからは日記のことは一切言わない」と伝えました。
 それで間に合わなかったら、先生に「すみません、やっていませんでした」と謝りなさい、というところまで約束させました。

■夏休みの途中、やっぱり遅れ始める

 やってみると、急かさなくていいので、親は楽。子供も、言われることがないので上機嫌。家庭内の空気はいい感じです。

 最初の数日は、初めての緊張感もあって、頑張って日記を書いていました。
 それから、書き忘れの日が連続3日間。3日目になって、慌てて始めましたが、慌てたお陰であっという間に終了。
 この、1日で3日分の日記を書いたのが、良くない自信になったようです。
「その気になれば3日分くらい、すぐできるんだ」
 と思ったようで、ダラダラと遅れ始めました。

 妻と、いよいよ溜まり始めたなあ、と顔を見合わせました。
 夏休みの終わりになって、溜まった日記に呆然とするはずです。書いても書いても終わらない体験をして、場合によっては先生に頭を下げることでしょう。そうした失敗を繰り返して、自分から行動を律することを覚えるはず。
 親は我慢!

■夏の終わり。予想外の結末

 本人が再び慌て始めたのは、夏休みも残り一週間になってから。
 日付を見て、溜まっている日記の数を数えたのでしょう。急に涙目になって、
「もう、日記が終わるまで、机の前から離れない」
 などと、突飛な宣言をしたりしました。
 もちろん、そんな決心は続かないわけですが…(笑)

 それでも、頑張ってまとめ書き。少しずつ、少しずつ追いついて、とうとう8月31日の夜7時。
「終わったよ!」
 と得意満面。
 おかしい。こんなはずじゃなかったのに。

 妻が思わず口走りました。
「あー、間にあわせちゃった!」
 思わず私も
「大丈夫、きっとまたチャンスがある!」
 いつの間にか、間に合わないことを期待していた両親。見事な本末転倒ぶりでした。

 これが自分で自分を律する訓練になったのかはわかりません。ただ、問題を子供に返すことで、親がイライラしなくて済んだのは、大きな収穫でした。