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2012年12月12日水曜日

書き取りよりも計算よりも大事な「ストローク」の与え方


先日、「言うことを聞かない子供には、逆に叱る時間を減らしてみるといいらしい」という書き込みをしましたが、この内容について、もっと深く書いた記事を見つけましたので、紹介したいと思います。記事は

・「幼いころの“構ってちゃん”が仕事や人生の邪魔をする

 詳しいことは実際に記事を読んでもらうとして、おおざっぱなまとめと感想を。

 私が先日書いたようなことは、「交流分析」の「ストローク」の概念で説明できるようです。
 ストロークとは、人からもらう反応のこと。
 人間は社会的動物と言われますが、人との関わりがどうしても欲しいもののようです。だからストロークをもらえる方法を学習し、行動します。
 その方法を学ぶのは子供時代。どんなことをすれば自分の方を見てもらえるのか、何を言えば返事をしてもらえるのか。そうした経験を積み重ねて、人との関わり方の基礎を学ぶわけですね。
 そうして学んだ方法は、一生を通して使われます。幼児期の対人関係が、後の人間関係の基本になるので、どうやってストロークをもらっていたかはとても重要です。
 もちろん、望ましいのは適度な自由と適度な制限のもと、良好で十分なストロークをもらえていた場合。

 では、十分に良好なストロークをもらえなかった場合はどうなるか。
 褒められる、優しくされるなどのプラスのストロークが足りないときには、無いよりまし、とばかりに怒られるなどの悪いストロークでも欲しがってしまいます。そうしてマイナスのストロークをもらう習慣がついてしまった場合は、困ります。
 
 たとえば、もし相手を怒らせることでストロークをもらうことを学ぶと、大きくなっても相手をわざと怒らせてストロークを手に入れようとします。
 うまくできているときにはかまってもらえず、失敗したときだけかまってもらえると学ぶと、頑張って成功しようという意欲を持てない可能性があります。

 もちろん習慣ですから、変えようと思えば変えることもできます。ただ、無意識に行っていることを変えるには、知識も時間も努力も必要です。
 子供の将来を考えるとき、計算や漢字の書き取りよりも重要な問題だと言わざるを得ません。ぜひ、リンク先の記事のご一読をおすすめします。

2012年11月24日土曜日

文字の敏感期についての個人的体験


 敏感期には、いろんな種類があって、もちろん文字の敏感期もあるわけです。参考までに、わが家の例を書いておきます。

 以前に書いた「子供の潜在能力を101%引き出すモンテッソーリ教育」(講談社+α新書)では話し言葉の敏感期は0~3歳、書き言葉の敏感期は3歳以降としています。
 娘の場合、本当に書かれているとおりの3歳から始まりました。

・読むこと
 一歳になる前から絵本の読み聞かせはやっていましたが、とくに文字に興味を持つことはありませんでした。
 ところが、三歳の誕生日を過ぎたころ、突然文字への好奇心が爆発しました。絵本を読んでいても、話の筋とは関係なく
「あ、の字は?」
「お、はどれ?」
 と一音ごとに文字を尋ねます。散歩していても、看板などの文字を見るたびに質問が始まります。
 面倒を省くためにパソコンから50音字表を出したのですが、逆にそれを利用されて、「これは? じゃあこれは?」と連続で尋ねられる始末。いかにも敏感期らしい集中ぶりで、聞かれることに返事をしているだけで、次々と文字を覚えてゆきました。
 結局、一ヶ月かからずに50音を覚え、さらに数ヶ月で濁音や「きゃ、きゅ、きょ」などの音、「は」と「わ」の読み方を覚えて、一人で本を読むようになりました。

・書くこと
 読めるようになったら、次は書くことに興味を持つかと思ったのですが、そういうわけではないようです。文字を書くことに興味を持ったのは、ぐっと遅れて四歳半。
 このときは勝手に新聞広告などの文字を書き写し始めたので、また50音表を出して渡してやりました。

 今にして思えば、これが大失敗。書き順のない50音表を渡したので、書き順がめちゃくちゃでした。皆様、子供が字を書くことに興味を持ったときには、ぜひ書き順付きの50音表をどうぞ。

参考までに、いくつかのホームページを紹介しておきます。
リビング用「ひらがな書き順表」

ひらがな練習プリント


 ちなみに、本物のモンテッソーリ教育では、手を使うことを重視する意味から、字の形の溝を彫った板をなぞるなど、読むより先に書くことをするそうです。


・最近の娘
 なぜか、遭難ごっこが大好きです。船で流されたり、島にたどり着いたり、小屋を造って食料を持ち込んだり。
 あんまりしばしば遭難ごっこに誘いにくるので、
「遭難ごっこしよー!」
 と言われるときに
「え、そうなん?」
 とオヤジダジャレで切り返すことにしました。娘は笑いますが、目は冷たいです。


2012年11月13日火曜日

口の中で「チャリーン」とつぶやいてみる


 前回の「子供は親の時間を食って成長する」という言葉に関連して。

 子供が生まれたての頃、母親はやっぱりたいへんです。数時間おきに目を覚まして泣きますから、授乳したり、おむつ替えをしたりしなくてはなりません。母乳だったので、私が代わってやることもできず。たまにおむつ替えを手伝うくらいです。

 最近、妻がそのときを思い出して言います。
「あのとき、貯金って言ってくれたのが助かったー」
 
 これだけだと何のことかわかりませんね。はっきり言って、言った私も忘れてました。

 夜中に子供が目を覚まして泣いたとき、私がこう言ったそうです。
「今、この子の中に貯金してるんだよ。泣いたときに無視されなかったってことで、親に対する信頼が、チャリーンって」

 妻いわく、そのとき頭の中に貯金箱が浮かんだらしいです。
 今、確かに子供に時間や手間をとられている。しかし、その時間や手間は、消えてなくなったりしない。すべてこの子の中に残って人格や知性の元になっていくのだ、とイメージできたら少し楽になったのだそうです。

 貯金箱というのは、ちょっとセコいイメージかもしれません。でも子供を育てる親にも、何らかの励みは必要です。やった結果がしっかり残っていると思うだけで、力が出ます。

 子供が泣きながら飛びついてくるとき、服をどろんこに汚してくるとき、よくわからない言葉で一所懸命に話しかけてくるとき。
 相手をするのがちょっと疲れたなと思ったら、口の中で「チャリーン」とつぶやいてみてください。いま、信頼が、安心が、温かさが、子供の中に貯まっています。
 その貯金には、かならず大きな利子が付いて返ってきます。
 


・最近の娘
先日、小学校入学前の健康診断を受けた娘。
視力検査で
「はい、それじゃあCのあいている方を答えてねー。これは?(↑)」
「うえ!」
「これは?(↓)」
「した!」
「これは?(→)」
 娘は自信たっぷり、大きな声で
「よこ!」

 どっちやねん。

2012年11月4日日曜日

言うことを聞かない子供には、逆に叱る時間を減らしてみるといいらしい

 親のいうことを聞かない子供には、二つのパターンがあります。
 一つは「やりたい!」という衝動が抑えられないとき。といっても、これは健全な意志の現れですから、だんだんとルールが飲み込めてくると収まってきます。
 問題はもう一つの方。親にかまってもらうために、わざと言うことを聞かないときです。

 子供は、親にかまってもらうのが大好き。見ていてほしいし、話を聞いてほしい。できればくっついていたい。人間は社会的動物ですから、認められたり注目されたりすることが必要なのです。 

 親にかまって欲しいとき、もっとも確実にかまってもらえる方法の一つが「叱られること」なのです。どんなに親が忙しくても、大騒ぎしたり、ものを壊したりすれば、子供の方をみてくれます。
 親は叱っているつもりでも「もっとかまって欲しい」と感じている子どもにとっては、ご褒美をもらっているようなもの。悪いことをするほどかまってもらえるわけですから、いくら叱っても言うことを聞かない悪循環に陥ります。

 そこで、子育て理論の中には「悪い行動に注目しない」という方法を提唱するものがあります。
 子供が悪いことをしたときには、なるべく短時間で注意を与え、かまいすぎない。
 逆に、悪いことをしていないときにしっかり向き合い、なるべく褒める。

 子供にとっては悪いことをしても何も得することがありません。逆に、良い行動をしているときに親の関わりが得られるので、行動を改めやすいのです。
 叱られることによる自尊心の低下が起きにくく、いいところを認めてもらうことによって自信がつくのもいいところ。
 「子供が言うことを聞かないなあ」と思うときには、考えてみていい方法です。

 もちろん、叱る以外の関わり方が多いのが前提。なんでもないときに、たっぷりかまってやると、子供の心も安定して一石二鳥です。

・付記1
 無視と褒めることのバランスを使ったしつけの本があります。悪いところを指摘して叱るのではなく、良い点に注目、悪い点を意図的に無視することで子供を指導します。
 マンガ形式なのですぐ読めて、お勧めです。

2012年10月17日水曜日

子供のウソを、あえて信じてみます


 前回書いた「子供に結果を体験させる」方法は、ウソのしつけにも使えます。

 ウソをつくことがいけないのは、そのウソが真実としてまかり通ってしまうから。だから「ウソをつくな」という代わりに、子供のウソをあえて真実として扱い、子供が困るまで押し通してやるわけ。
 
 ある日の食事時、娘が「もうおなかいっぱい。残していい?」といいました。見ると、皿の上に残っているのは嫌いなものだけ。本当におなかがいっぱいかどうかは見てればわかりますから、
「いいよ、残しなさい」
 と言いました。
「はーい」
 とニコニコの娘。それを見計らって、
「さあ、デザートだ」
 とチョコレートやビスケットを取り出しました。あわてたのは娘。食事を残さず食べたときだけデザートというルールなので、さっき残した皿にとりかかろうとします。
「おなかいっぱいだから、無理に食べなくていいよ」
 と皿を取り上げてしまうと、娘は「まだ食べられる!」と言い張りました。

 ここで
「ウソをつくからだ!」
 という叱り方もできるのですが、そこはあえて叱りません。
「さっき、おなかいっぱいって言ったよね。それともウソだった?」
 子供でも、ウソという言葉はプライドが許さないらしいです。涙目になりながらも、納得しました。
 まあ、一時間くらいたってから「そろそろおなかが空いたかな」と水を向けてやるのは、やっぱり甘いところ。

 ウソが本当に怖いのは、ばれた時よりばれないとき。その怖さを幼いうちに体験すれば、ウソをつくことの意味がわかるのではないかと思います。


 とはいうものの、娘はもともとあまりウソはつきませんでした。
「好きな食べ物はキノコです」という、何のためにつくのか分からないウソをつくくらいで(本当は嫌い。とくにエノキとナメコが大嫌い)。

 ウソが少なかった理由を考えると、あまり叱りすぎなかったせいかもしれません。
 三歳、四歳くらいまでの子供のウソは大半が身を守ろうとするものです。だから強く叱られれば叱られるほど、隠すためのウソは増えます。失敗などしたときにも、あまり叱りすぎないこと。罰も原状回復(落書きをしたなら自分で消させる、ものを壊したら自分で片づけさせる)を基本にしておけば十分ではないかと思います。

 ところで娘ですが、5歳になったある日の朝食時に突然、
「お父さんごめんなさい。ウソついてました」
 と言い出しました。こちらはぜんぜん心当たりがありません。
「ウソってなに?」
 と尋ねると、
「…ほんとうは、キノコ嫌いです」

 うん、知ってた。

2012年10月9日火曜日

子どもに叱り方をダメ出しされました

 娘は本が好きで、絵本でもマンガでも手あたり次第に読みます。大人用の本でも、絵やマンガが入っていれば読もうとします。愛読書は「究極超人あーる」(この題名を見てわかった人は、きっとアラフォーの男性)

 あまりにも本を読むことに引っかかるので、ものごとが進まないこともしばしば。そこで先日、妻が娘を叱ったそうです。
 すると娘が
「その叱り方はダメ。これ読んで勉強して」
 と言って、「子供の心のコーチング 実践編」(菅原裕子)という本を差し出したとのこと。幼稚園児のくせに…。
「ちょっとイラッときた」とは妻の弁。


 「子どもの心のコーチング 実践編」は、マンガ入りの子育て本です。
 著者は人を育てる技術、コーチングの専門家で、「自ら問題解決できる子を育てる」方法を書いています。対象は主に小学生以上の子どもを持つ親。
 メインになるのは2つ。子どもの問題と親の問題を分けること。子どもに自分で考えさせ、結果の責任をとらせることです。

 例えば、朝起きてこない子どもに対しては「起きるのも遅刻するのも、本来は子どもの問題で、親の問題ではない」と考えます。
 親は「子どもが遅刻したら恥ずかしい」と、起こしてしまいがち。そうすると子どもは、遅刻をせずにすむので、遅刻という苦い結果を体験することが出来ません。ひいては正しいルールを学ぶチャンスを失ってしまいます。

 そこで、子どもに責任を返し、「これからは起こさないから、自分で起きよう。そのために何か必要な物はある?」と問いかけます。目覚ましが必要だと言ったら買ってやる。その上で、本当に起こさないことを徹底します。
 遅刻して恥をかいたら、その結果を子ども自身が体験して学ぶでしょう。それによって自分で考え、実行する事ができるようになるというのです。

 この方法の便利なところは、子どもが自分で学んでくれることです。
 子どもにルールを教えようとするときには、つい叱って、せかして、指示を飛ばしまくったりするもの。しかし親が代わりに考えてしまうと、子どもに責任感が育ちません。
 必要な行動と、それをしないことによる結果を教えるのが親の役目。あとは体験を通して、叱らなくても自分で学んでくれます。

 わが家の例。3歳くらいのころ、癇癪を起こして親を叩くことがありました。そういうとき、「叩くな」という代わりに「叩かれたら嫌だ」と伝えました。それでも叩こうとしたら「叩かれるのは嫌だからあっちに行く」と子どもを置き去りにして去ることにしていました。もちろん、追いかけてきてもかまってやらない。
 叩かれるのは嫌だということ、叩くと人が離れてゆくという結果を体験することで、すぐに叩く癖はなくなりました。親としても、叱るよりずっと気楽でした。

 ちなみに「子どもの心のコーチング 実践編」の他に、マンガの入っていない「子どもの心のコーチング」が有ります。内容はほとんど変わらないので、どちらを読まれても良いと思います。


2012年10月5日金曜日

子供に甘いのが、日本の伝統でした


 日本は昔から子供をかわいがる国だったようです。
 幕末に日本にきた外国人が、世界で一番子供に甘い国だと表現するくらい。
 いわく、赤ちゃんは常時だっこやおんぶされており、放っておかれることがない。大人は子供とよく遊び、声高に叱ることもほとんどない。
「母親にだっこされている子供が、芋をかじるのと交互におっぱいを飲んでいた」という微笑ましい記述もありました。現代から見ても、大甘に甘い育て方です
 
 武士道の教科書とも言われる「葉隠」に、子育て論があります。
 「武士道とは死ぬことと見つけたり」のフレーズで有名な厳しい本だから、子育てについてもさぞやスパルタかと思えば、
「幼いときから勇気を勧め、おどしたりだましたりしてはならない。(略)泣きやませようとして怖い話などするのはもってのほかである。(略)幼いときに強く叱ると引っ込み思案になってしまうから気をつけよ」
 これがあの「早く死ぬ方に片付くばかりなり」の本とはとても思えない気遣いぶり。

 こうして甘く育てられた子供たちが、どんな大人になったか。甘やかしたらワガママになるんじゃないかと思われがちですが、外国人たちは口をそろえて「日本人は、他のどの国民よりも礼儀正しく、親切だった」といいます。
 甘く育てられたのに親切だったのか?
 いや、甘く育てられたからこそ、親切だったのでしょう。

 モンテッソーリは子供の特長として「吸収する力」をあげています。とくに三歳までは周りの環境をそのまま吸収するとのこと。
 いくら礼儀作法を仕込んでも、横暴な態度で教えれば、子供は横暴な態度を覚えます。体罰を使って教えれば、「いうことを聞かない相手は叩いてもいい」と覚えるでしょう。
 教える内容よりも、態度のほうが重要かもしれないのです。親の姿がそのまま子どもの将来の姿になると思えば、どうしても寛容に、根気強くならざるを得ません。そうして関係をしっかり築き、しかるのちに教えるべきことを教えていくのが、日本の伝統だったようです。

 怖い父親、厳しいしつけという日本的子育てのイメージは、実は明治以降のもの。西洋の子育て理論が持ち込まれて来てからのようです。
 子供中心主義といわれる昨今。実は日本の伝統的子育てに戻っているだけなのです。

2012年10月1日月曜日

「我慢」という言葉は誤用だったんですよ


 前回、我慢について書きましたがそれについてのトリビアを1つ。 

 我慢の「我」は、「われ」。「慢」という字は
①心がゆるんでしまりがない
②速度や進行がだらだらと遅い
③他を見くびっておごる(YAHOO辞書)

 悪い意味しかありません。耐えるという意味もありません。
 したがって、字の意味通りで言えば「ワガママ」と変わらない意味になってしまいます。
 これが昔から疑問だったのですが、最近謎が解けました。教えてくれたのは下のホームページ。

浄土真宗西法寺「仏教の言葉」

 元々は仏教用語だったんですね。意味はやっぱり「おごり高ぶる」。仏教的には「我」はよくないとされるので、自慢以上に悪い意味だそうです。それが「我が強い」→「意志が強い」→「耐える」という意味の変遷を経て、今の意味になったのです。

 先日「にやける」という言葉について76.5%の人が誤用しているというニュースがありましたが(「なよなよしている」が本来の意味。「にやにや笑い」が誤用)昔から誤用があったんだと思えば、感慨深いものがありますね。


2012年9月23日日曜日

我慢できる子供を育てるために大事なこと


 「EQ こころの知能指数」(ダニエル・ゴールマン 講談社)に、マシュマロ・テストという実験が紹介されています。

■子供の将来を示す、マシュマロ・テスト

 対象となるのは四歳児。実験者は皿の上にマシュマロ(子供の好きなものなら何でも良いのですが)を一つおき、こう言います。
「今から私は外に出るけど、私が戻ってくるまでこのマシュマロを食べずに待っていられたら、もっとたくさんあげよう」
 そうして、15分から20分ほど部屋を空けます。
 子供の反応は大きく分けて二つ。実験者が帰ってくるまで待てる子供と、待つことができずマシュマロを食べてしまう子供です。

 問題は子供たちのその後を十数年に渡って追跡調査した結果。マシュマロを食べずに我慢できた子供は社会性、学力ともに、食べてしまったグループより高い成績を示したそうです。つまり我慢する能力がこうした差を作ったのではないかというのがその解釈でした。

 当然、気になりますよね。どうしたら我慢できる子どもが育つのか。
「いろんなことを禁止して、我慢に慣れさせればいいのでは?」
 はい、ハズレです。

■「我慢させる」では「我慢する」力は育たない

 このマシュマロ・テストで問われているのは「我慢する」こと。よく誤解されているのですが、「我慢する」のと「我慢させられる」のは、全く別の能力です。
 例えて言うなら「明日テストだ」と自分で考えて、遊ぶのを後回しにできるのが「我慢する」能力。逆に「遊んでる暇なんかないでしょ!」と言われて、監視つきで嫌々ながらも勉強するのが「我慢させられる」能力。
 強制がなくても行動を律することが出来るかどうかが、その違い。

 我慢する能力を育てるには、自分で判断して、その結果を経験することが必要です。マシュマロ・テストで言えば、食べてしまってもらえなかった、あるいは食べないでたくさんもらえた、といった体験を繰り返すことで、結果を予測した行動がとれるようになってゆくのです。
 親や教師が「我慢させてくれる」状態では、「我慢する」力は育ちません。

■最も大切な要素「信頼」

 さらにもう一つ。
 我慢には信頼が必要です。
 1つ仮定してみましょう。仮に、マシュマロ・テストで我慢できた子供に、ご褒美のマシュマロを与えなかったとしたらどうなるでしょうか。さらに何度も、我慢させてマシュマロを与えないことを繰り返したら?

 一回二回なら我慢できる子どもはいるでしょう。しかし何度も約束を破られれば、我慢しても無駄、目の前のマシュマロを食べてしまえと考えるようになるでしょう。つまり、我慢できる子どもは、約束が守られると信じているから耐えられるのです。
 
 心理学では、未来が予測できない時に「今さえ良ければいい」という刹那主義になりやすいことが知られています。「この先どうなるかわからないなら、我慢しても頑張っても無駄」と考えるからです。今の我慢が、努力が未来につながっている信頼があるから、我慢も努力もできる。

 たとえば震災の時「日本人は暴動を起こさない」と外国で賞賛されました。
 あの時、被災者の方々の頭のなかには「きっと助けが来る」という信頼があったのではないでしょうか。もし「誰も助けにこない、見捨てられている」と感じている人ばかりだったら「身を守るために奪い取れ!」というパニックになってもおかしくありません。
 社会に対する信頼が、あの落ち着きの根底にあったのです。

 そう考えると、子供を我慢できるように育てるには、信頼が必要だとわかります。
 具体的には、約束を守ること。親の都合でルールを変えないこと。

 もし「あとで遊んであげるから」と言ったのなら、疲れていても遊ばなければならない。「次に買うから」といったら、次は買わなければなりません。約束は守られる、という信頼が我慢する力を育てるのですから。

 逆に、悪い約束も守らなければなりません。マシュマロテストで言えば、待てなかった子どもにマシュマロを与えてはいけないのです。何かを「買わない」と言ったら、へそを曲げようがだだをこねようが、買わない。それも言葉に対する信頼のうち。

 ただし、突き放すのではありません。頭ごなしに「ダメ!」では、欲しい物が手に入らないストレスと、叱られたストレスが重なって大変です(どちらかといえば、親が)。「欲しい気持ちはわかるよ」と、子どもの欲しい気持ちによりそいつつ、買わないものは買わない。
 結果は同じでも、気持ちを理解してもらえたことで子どもは納得しやすくなります。

付記
 肝心のモンテッソーリ教育的な考え方を書いていませんでした。下の記事で、改めて書いています。
我慢できる子を育てるために大事なこと②

・・・我が家の場合・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 悪い約束を守るのは、親にとってもつらい我慢です。
 娘が三歳の頃、奈良でシカの人形を買って欲しいと言ったことがありました。ビニール製の、車輪がついているだけの人形が千円。完全な土産物価格ですから、買うわけ無いですよね。娘の好きな「じゃがりこ」10個分だと説明してやると、娘は納得しました。娘はね。

 本当に納得していなかったのは私で、しばらくすると後悔が頭をもたげてきました。もしシカの人形を買ったらどんなニコニコ顔になるだろうかとか、どんなに意気揚々として引いて歩くだろうかとか、考え出すと止まらなくなってきます。
 教育上、買わないと言った言葉を翻すわけにはいかない。といって、喜ぶ顔は見たい。迷っている間に買うチャンスを失ってしまいました。その後、本人がシカ人形を欲しがることはなく、買う機会は無いまま(わが家では原則として、本人の欲しがらないものは買いません)。

 たぶん今買っても、あのときと同じ反応にはならない。あのときの笑顔を見逃したことを、未だに後悔しています。
 私にとっての、子育て三大後悔の一つです。
 …バカ親?

2012年9月18日火曜日

モンテッソーリの言う「正常化」を脳科学で考えてみる

 ルールを守れない、人に迷惑をかける、積極性がない…。そうした問題は、しつけが原因といわれることが多いです。
 もちろんしつけや訓練として「外から型を当てる」ことは必要ですが、それだけでは不十分。子供の「中身」を育てる必要があります。

 モンテッソーリ教育では問題行動の原因を逸脱発達、つまり本来の発達コースをはずれてしまっているせいだと考えます。問題を解消する方法は、正常な発達コースを踏めるようにしてやること。
 「自らの知性と意志で自分の体を動かし、しかも心ゆくまでその活動に没頭し、自分の精神と肉体のリズムを取り戻すという、たった一つのことが必要なのです」(「ママ、一人でするのを手伝ってね」相良敦子)

 集中して体を動かす過程で問題が消えてゆくことを「正常化」と言います。モンテッソーリ教育の本を読んでいると、いろいろな問題を抱えた子供が劇的に変わる例がいくつも紹介されています。

 もちろん、ただ体を動かせばいいということではなくて、正常化が実現するには、いくつかの条件があります。

①子供が自分で選んだことに自由に取りかかること
②やり始めたことに続けて取り組むこと
③そのことに全力を傾けること(集中現象)
④以上の過程を通って、満足した表情で自分からやめること

 9月4日の「今できなくてもいいのです」で書きましたが、子どもが全力で取り組んでいる間、じっと見守るのも親としてはなかなか辛くはあります。

 
 どうして作業への集中によって、子供の人格にまで成長が起こるのか。


 敏感期と臨界期の話でも書きましたが、モンテッソーリ自身は、この集中現象による正常化を、人格を形作る決定的な要素だとみなしていました。問題児の多くは、この過程で親が押し付けをしたり、過干渉だったりすることによって、十分な集中ができなかったことによるものだと述べています。子どもの成長へのエネルギーは極めて大きく、適切な方向へ流れれば能力や人格を大きく育てることができます。しかしうまく使わなければ氾濫して問題を起こす、と主張していました。
 この理論はそれなりに納得できるところもあるのですが、現時点では証明されたわけではなく、仮説の一つだと言えます。


 そこで、今流行の脳科学的に考えてみると、以下のようになりそうです。
 脳の人格に関わる機能はほとんど前頭前皮質に集中しているとされています。自分で決めたことに集中的に取り組む行動には、行動する意思や主体性、感情の抑制(がまん)、試行錯誤による柔軟な思考など、前頭前皮質に関わる機能の多くが含まれています。手作業が前頭葉への血流を増やすことは、東北大学の川島隆太教授の実験からも明らかになっています。
 ある期間にわたってこのような刺激が続くなら、前頭前皮質の発達を促すことはむしろ当然だといえましょう。

 逆に、親によって指示や強制がある場合には自らの前頭葉で意思を発揮したり抑制したりする必要がなくなりますし、親が子どもの代わりにそうした作業をやってしまえば、訓練の機会そのものが失われてしまいます。黙って見守ることが重要な所以です。

 もしも前頭前皮質が十分に育っていなければ、計画を立てて守ることも、情動を抑制することもできません。いくら厳しくルールを教えても守れないのです。中身が育ってこそ、外面から教えられるルールが守れるようになるのだと思います。



2012年9月12日水曜日

子どもの想像力と親の財布を豊かに


 前回に引き続き、娘のブラックなネタです。

 二歳頃、宅急便ごっこをして遊んでいました。
「おにもつー」
 といって持ってきた箱には小さなぬいぐるみがたくさん。
「はい、荷物ありがとう。何?」
 と尋ねると、ぬいぐるみの一つを抱き上げて頬ずりし、
「ちっちゃいあかちゃん」
 といいました。うわー、赤ちゃん宅配とはシュールだなーと思っていると、娘は急に台所に走っていき、おたまを持ってきました。それで箱の「ちっちゃい赤ちゃん」たちをかき回し、一つすくい上げて
「肉だんご」

…どこの悪魔だ。

 このブラックままごとでは、箱と本物のおたまを使ってました。実はいとこのお下がりの「ままごとセット」もありましたが、何かが気に入らないらしく、いつも箱を使ってみたり本物の鍋を持ってきたり。とうとう一回も、ままごとセットでままごとはしませんでした。

 そういえば、プリキュアシリーズの変身ステッキをほしがったことがあります(テレビは戦闘シーンを怖がって観ないのですが、格好はマネしてみたいらしい)。しかし誕生日に買ったステッキはやっぱり使わず、ラップの芯に飾りをつけたステッキを自作してました。バージョンアップしながら、7、8本は作ったはず。

 六歳まで育てて思うのですが、売っているおもちゃは、たいていすぐに飽きてしまって、遊びません。逆に喜んで遊ぶのは、ゴミ寸前の不要品ばかり。
 段ボール箱。トイレットペーパーの芯、空き箱、色紙。それからセロハンテープとハサミ。


 モンテッソーリ教育と並んで有名な教育理論に、シュタイナー教育があります。自由への教育。芸術と結びついた教育。表現する言葉はいろいろありますが、独特の人間観に基づいた教育の体系です。
 このシュタイナー教育では、形の完成したおもちゃを与えません。布で作った顔も描いていない人形や、木の切れ端にサンドペーパーをかけただけの不定形な積み木を与えるそうです。完成品は想像力を刺激する余地がない、というのがその理由。
 納得させられるものがありますね。

 もしかすると買ったおもちゃでは想像力が刺激されないので、飽きてしまうのかもしれない。
 ということで、想像力を刺激するために、あえておもちゃは買わないという選択肢もあり。買わなくていいんですよ、うんうん。
 財布にも優しいし。

2012年9月7日金曜日

口から入るものと同じくらい、耳から入るものは重要です

 入浴中、人形を風呂の縁に立たせて、娘が言いました。
「せんぱいの人が、こうはいの人を、川にとびこませた事件があったよねえ」
「あったね」
 娘は人形の背中に手を添え、
「早くとびこめとは言ったけど、なぐるぞとは言ってない…」
 とつぶやくように言いつつ、人形を風呂にドポーン。

 ニュース番組の流しっぱなしはやめようと決意した瞬間です。


 私たちは、子供の口から入るものには気を使っています。甘いものとか、添加物とか、放射線とか(うちは福島県産の米を食べてますけど)。
 では、子供の耳から入るものにはどのくらい気を使っているでしょうか?
 
 テレビから、本から、周りの人から。
 食べるものが身体を作るように、目や耳から入るものは心を作ります。とくに、大好きな親の言葉はストレートに子供の心に入るはず。

 心理学には「自己成就予言」という言葉があります。人間は、自分の言葉や、自分自身に対するイメージ通りに行動してしまうという説です。
 れっきとした実験的根拠のある説ですよ。本当に。


 評価やイメージが現実を動かすという説は心理学ではポピュラーなものです。
 個人的には「認知的不協和」が関わっているのではないかと考えています。大ざっぱに言うと「人間は矛盾が嫌い」という性質です。


 「俺はダメな奴だ」という自己イメージを持っている人は、怠けたり、逃げたりとダメな人らしく行動するほうがイメージと行動が矛盾しません。逆に、頑張るのはイメージと矛盾してしまうので大きな努力が必要。そういう行動をとっているうち、本当にダメな人になる可能性があります。
 同様に、自分は不良だと思っている人は、自分は善良だと思っている人より犯罪的行動に抵抗を感じないはず。
 こうして、イメージが現実化してしまうというメカニズムです。

「バカ!」
「あんたはいつも遅い」
「どうせできないんだからやめなさい」
 これ全部、街で歩いているときに聞いた言葉です。これが心の奥底に沈んで「バカ」で、「いつも遅くて」「どうせできない」自分、というイメージを作り上げるとしたら…。

 昔は、あえて罵倒して発憤させようとするやり方がありました。しかし有害であることが判明している以上、もう消えるべき方法です。

 とはいえ、子供の問題を指摘する必要がある場合もあるわけで。
 「フィンランド式キッズスキル」(ベン・ファーマン 佐俣有佳子訳 ダイヤモンド社)という本では、
「君は○○が出来ない」
 という代わりに、
「○○が出来るようにしよう」
 という言い換えを紹介していました。これ、子どもに要求したいことは同じなのですが、イメージが全然違いますよね。片方は文字通り「お前は出来ない」ですが、もう一方は「いずれできるようになる」という意味が含まれています。子どもに与える影響も違ってくるでしょう。

「あんたは片づけられない」
 ではなく
「片づけるようになってほしい」

「好き嫌いが多い」
 ではなく、
「食べられるものを増やそう」

 ちょっとした違いですが、すべて心をつくると思えば、気をつけても損はしないと思うのです。

2012年9月6日木曜日

子供には「教えながら教える」のだそうです

 前回、間違いや失敗を指摘しすぎるのは問題だ、と書きました。しかし、間違いを指摘しないで、どうやってものごとを教えるのか。

 落語家の春風亭小朝が「眼高手低」の話をしているのを聞いたことがあります。どんな芸ごとでも、上達する時には眼、つまり観賞眼の方が先に上がる。そうすると自分の手、つまり腕前の足りないところが見えるようになり、上達できるというのです。
 自分の中に目指すべき基準を作ることが、上達の条件。
  子どもに教える場合にも、部分部分を修正するのではなく、何を目指すべきかの基準、全体の流れを見せてやることが必要なのだと思います。「どうしたらどうなるか」をひと通り教えてやり、あとはひとりで何度も繰り返して上達してゆくようにする。

 モンテッソーリ教育では「教えながら、教える」と言うそうです。不思議な言葉ですが、「訂正しながら教える」の対義語だと思ってください。
 教えたいことを、子供の目の前で、ゆっくりと(大人がふつうにやるのに比べたら、8倍の時間をかけると良いそうです)、やって見せます。とくに2、3歳の子供は、聞くのと見るのを同時にするのが苦手らしいので、黙ってやって見せるのが重要。何度も繰り返して見せてやり、あとは子供がそのやり方をまねるのを待つ。

 実際にやってみると、こちらが教えようとしても熱心に見ないこともあるし、教えてもそのとおりにしないこともあります。そういうときは、まだ理解できるときが来ていないと考えて、強制はしません。あくまで子供のペースを守ることが優先だそうで、適切なタイミングをつかむのは結構面倒です。
 訓練を積んでいるモンテッソーリの先生は、そのタイミングをきちんと掴んで指導するそうですが、プロならではの方法ですね。

 私自身はそこまで掴み切れないので、試しに一回だけやってみせることにしていました。子どもが乗ってくれば教える。乗ってこないときは、放っておく。そんなとき、子どもは1人で試行錯誤をしていました。
 「試行錯誤の間に脳は育つしなあ」というのが手抜きの言い訳…。

2012年9月4日火曜日

自分で挑戦してゆく子供になってほしい


 子供は自ら挑戦し、発展してゆくものだと前回書きました。ただし親が口出しし過ぎると、挑戦を嫌がるようになることもあります。

 子供が自分で何かをやるときには、よく失敗します。仕上がりもたいてい不完全です。だから親はつい、口を出したくなります。
「もっとまっすぐ切ればいいのに」とか、
「こんな色じゃないでしょ?」とか、
「お手本を良く見て、きれいに折りなさい」
 などなど。もちろん、上手くやらせてやりたいという親心からの言葉。

 しかし子供心には結構つらいのです。「あれがダメだ、これが出来ない」と言われ続けながら意欲を保つのは、大人でもかなりの難事。やがては挑戦そのものを怖がるようにもなりかねません。

 確実にできることにしか、手を出さない。
 子どもがそう考えるようになったら、自分で挑戦してゆくことは難しくなります。
 挑戦してゆく子供に育てたければ、急がないこと。子どもの成長にじっくりと付き合ってやるしかありません。

 そもそも子供の人生の本番は、20年も30年も先。今は出来なくてもいいのです。
 きれいな絵を描くより、立派な工作を作るより、たくさん失敗して自分自身を育てて欲しいと思っています。

 そう言いながら、気づくと可愛い絵やら工作やらの写真をたくさん撮ってたりします。しょせん親バカと言うことで…。

2012年8月31日金曜日

子どもの意欲の活かし方


 「子供の意欲を活かす」という話を書いていると、心配になる方もいるのではないでしょうか。
「子供の意志につきあっているだけでは、子供は楽な方に流れるのではないか?」
 私の子供は現在6歳ですから、先々のことまではわかりません。しかし今のところ、信頼しておいて大丈夫だと考えています。なぜか?
 人間は「ちょっと難しいくらいを面白がる生き物だからです。

子供の意欲を高めるには


 スポーツが面白いのは、ちょうど自分と同じくらいの人と競っているときです。必ず勝つだけでは飽きてしまいます。

 娘の場合も、歩けるようになるとすぐ坂道を上りたがりました。坂道を上れるようになると、今度は階段上りに熱中しました。
 二歳頃、ハサミを使いたがった時もそうです。最初は広告の端に切り込みを入れることに集中し、やがて切り離すことを覚え、最後には自分の好きな形を切り抜くようになりました。
 子供は「ちょっと難しい」を求めて、勝手に新しいことに手を出してゆくものです。そして、結果としてそのほうが早かったりします。
 「子どもは成長したいという熱意をもっている」というのがモンテッソーリ教育の基本観念です。

 ただし、親がやらせたいことをやってくれるかはまた別の問題。

子供は子供のペースで育つ、という悟り

どんな敏感期がくるかは個性と発達の問題で、コントロールすることは出来ません。
 子供は子供のペースでしか育たないのだ、と納得することが必要です。

 どうしてもさせたいことがある場合、子供の周りでやってみせていれば、興味をもつかもしれません。モンテッソーリは「三歳までは周りの環境を無条件に吸収する」としているので、その時期に親が毎日ピアノをひくとか、英語を勉強しているところを見せるとかしていれば、吸収する可能性はあります。

 そういえば、トイレトレーニングはこの方法で手抜きしました。
 うちでは、二歳頃まで特にトレーニングはしていませんでした。そのかわり子どもの気分がのってくるよう、テレビ番組「いないいなばあっ!」の歌「それゆけ うんちっち~」を流してみたり、絵本「「ぷくちゃんのすてきなぱんつ」(ひろかわさえこ)を読んでみたり。
 するとある日いきなり、娘が宣言したものです。
「きょうからといれでする!」
 この一回目がたまたま上手くいったもので、本人、大得意。あとは順調にすすみました。

 子供は自分で育とうとするもの。親はそれを利用して、なるべく手を抜きたいものです(笑)。



2012年8月28日火曜日

「臨界期」と「敏感期」は、似ているようでちょっと違う


 前述したとおり、モンテッソーリ教育最大の特徴が敏感期の活用です。
 敏感期とよく似た言葉に「臨界期」があります。この二つは生物学では、ほぼ同じ意味です。ただし日本で教育について語る場合には別の意味になることが多いですね。

 「臨界期」は、絶対音感とか語学とかの早期教育を語る場合に使われます。
 「敏感期」はモンテッソーリ教育で使われる事が多いです。
 以下、臨界期と敏感期の違いをさらっとまとめてみます。

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臨界期は、脳が柔らかい期間のこと

幼児期の脳は、多くのニューロン(脳細胞の結びつき)を作る作業と、使わないニューロンを消す作業を、同時に行なっています。
 
 ニューロン活動の盛んな時期は、一般に8、9歳ごろまでといわれています。これが、臨界期です。
 だから、脳が固くなる8、9歳くらいまでにいろいろ教えこもう、と言うのが臨界期を頭に置いた教育です。

一言でいうと、「早ければ何でも覚えやすい」というのが臨界期の考え方。

イラストはフリー素材「子供と動物のイラスト屋さん」から

敏感期は、特定の学習意欲が高まっている状態

それに対して敏感期は、子供の意欲を中心とした考え方です。

 ツバメのヒナは、巣立ちが近づいてくると、誰に教えられなくても羽ばたきの練習を始めます。人間にもこうした本能のプログラムがあると考えます。

 例えば、文字の敏感期がきている子供は、「覚えたい!」という意欲に燃えていますから、本や教材を与えておくだけで、いくらでも文字を覚えます。これを敏感期の前に教えようとしても、子供自身の「覚えたい」という意欲が無いため、苦労ばかり多くて結果が出ません。遅くても、意欲が無くなってから勉強することになりますから、やはり大変。

 だから敏感期は「何かの学習意欲が高まる時期」と考えた方がいいですね。それを活かすのがモンテッソーリ教育。

敏感期を活用するには

敏感期は本能によるものなので、親や教師が決めることはできません。
「その時に持っている意欲を最大限に活かしてやることが敏感期の考え方です。

 親にできることは、いろいろなものに触れられるようにしておき、何かの敏感期が来ていると思ったら環境を整えてやること。そして、子どもの邪魔をしないこと。

 こう言うと面倒くさいように思うかもしれませんが、そんなに複雑な話ではありません。誤解を恐れずシンプルに言ってしまえば、
「敏感期とは、子どもが何かに夢中になって取り組んでいるとき」
 と考えておけばいいのです。だから、「子供が今、何に興味を持っているか理解する」というのがモンテッソーリ教育最大のポイントなのです。

・文字の敏感期については、「文字の敏感期についての個人的体験」に書いてあります。

2012年8月22日水曜日

写真集「未来ちゃん」の仏頂面がかわいい


 前回、ニコニコばかりが子供の魅力じゃないなあ、と書きました。なんであれ、一所懸命な子供は可愛い。そうした、一所懸命な子供の魅力がつまった写真集があります。

「未来ちゃん」川島小鳥 ナナロク社

 佐渡島の三歳児の写真だそうです。内容は表紙を見てもらえば一目瞭然。ケーキを口に押し込む、気迫に満ちた顔!

 走る、木登りをする、側溝に寝転がるなど、生活風景を横から撮った写真が大半。町での生活ではなかなかできない、ワイルドな行動がうらやましくもあります。

 カメラ目線の写真は少なく、笑顔の写真はほとんどありません。仏頂面だったり、鼻水を垂らして泣いていたりします。でも、その顔には明確な意志が輝いています。

 一生懸命な姿。たぶんどんな子供でも持っている魅力なのですが、それを改めて写真に定着してくれたカメラマンに感謝です。


2012年8月20日月曜日

娘一歳半、むやみに階段を上がる


 3歳までは、身体の使い方の基本を学ぶ時期だと言われています。立つ、歩く、手を使ってつかむなど。
 講談社+α新書の「子供の潜在能力を101%引き出すモンテッソーリ教育」では、歩くことの次に、登ることの敏感期が来る、としていました。登ることを通して、全身のバランス感や筋肉の使い方を覚えようとする、本能の現れだそうです。

階段を上がる敏感期


 うちでも、歩きの安定した一歳半ごろ、やたらに階段を上りたがる時期がありました。
 もちろん、しょっちゅう落っこちます。最初のころなどは2、3歩ごとに落ちて泣いていましたが(もちろん後ろについていて、頭を打たないように受け止めてました)、上ることはやめません。普段は柵をつけておいて(下にあるような、突っ張り式の柵)、親がついていられる時に好きなだけ上らせました。

 特に熱中したのは、デパートの階段です。
 地下一階から七階屋上まで、柵につかまりながら一歩ずつ上ります。食料品のフロアも、おもちゃ売り場の階も全く興味なし。ただひたすらに登ることに集中します。
 屋上まで到達すると急にぼんやりするので、地下一階まで連れて戻ってやると、はりきって再スタート。最高記録は、二回半。時間があれば、もっと上ったかも。

 大人はどこかに行くために上ります。しかし子供は、上ることそのものに意味を見いだしているようです。
 同じことを繰り返しているように見えても、少しずつ行動は発展しています。最初は左足から上って右足を引き上げるだけだったのが、だんだん両足を交互に使えるようになる。そしてやがては、柵から手を離して上る。その過程で脳が、全身の神経が発達していくのでしょう。
 大人でも、何かに上達してゆく時には楽しいもの。敏感期の子供も、そうした楽しみを味わっているのかなと思います。

 子供の敏感期につきあうのは、面倒と言えば面倒です。しかし一心不乱に頑張り続ける子供を見ていると、だんだん頼もしく、うれしく思えてくるのも事実。
 ニコニコばかりが子供の魅力ではないなあ、と思えてきます。



2012年8月16日木曜日

娘11ヶ月、ひたすら洗濯物をつかむ


 敏感期を定義すると
「生物の幼少期、ある能力を獲得するために、環境中の特定の要素に対して感受性が特別に敏感になってくる一定期間」 (「ママ、ひとりでするのを手伝ってね!」相良敦子)
 だそうです。大雑把に言えば「そのときの成長に必要な課題に集中する時期」といっていいでしょう。
 前々回に書いた「秩序感の敏感期」のほか、「言葉の敏感期」「感覚の敏感期」など、様々あります。

 敏感期には集中力と感受性、そして強い意思が表れます。

手を使う敏感期の子供


 娘が一歳になる前、まだようやくつかまり立ちが始まった頃。
 洗濯物を入れるカゴにつかまっていた彼女が、洗濯物を引っ張り出し始めました。つかんでは引っ張りだして、外にポイ。またつかんでは引っ張りだして、ポイ。

 一歳前後、つかんだりはなしたりすることの敏感期がくる、というのは本で読んでいました。そこで、おもしろ半分で、出した洗濯物をカゴに戻してみました。
 娘が右から引っ張り出す。私が左からカゴに戻す。
 娘が引っ張り出す。私が戻す。
 引っ張り出す。戻す。
 出す、戻す。

 休憩なし。声一つ出さず、親の顔を見もしません。突っ立ったまま、ひたすら洗濯物をつかみだし続けます。ようやく疲れて座り込み、親の顔を見上げたときには、30分以上もたっていました。
 立つことも出来ない子どもが、あまりにも長時間集中できることに驚いたものです。

 次の日からは靴下の引き出しを開けておくことにしました(洗濯物を散らかされるのは困るので)。それから何日か、飽きることなく引っ張りだしていましたね。


 敏感期は、いわば本能ですから止むに止まれぬエネルギーを持っています。止めるよりも生かしてやりたいもの。
 子供が何かを始めたら「もしかして敏感期かも」と考えてみてください。そして、安全なように、片づけやすいように環境を整えて、見守ってやってください。



2012年8月14日火曜日

モンテッソーリ教育の、かなり大ざっぱな説明


 モンテッソーリ教育の創始者は、イタリアの女医マリア・モンテッソーリです。
 もともと障害児の教育に取り組んでいたモンテッソーリは、1907年、今で言う保育園を任されます。そこで発見したのは、一定の条件を満たすことで、子供が能力的にも人格的にも大きく変化・成長してゆく姿でした。
 彼女はその事実をもとに、変化にはどのような法則があるのか、どのような環境が、働きかけが必要なのかと研究しました。それがモンテッソーリ教育と言われる一連の方法です。

 モンテッソーリ教育を特徴づけるのは、独特の子供観です。それをざっくり表現すると、以下のようになるでしょう。


・子供は自ら学び、成長する存在である

子供は大人から一方的に教えられるだけの存在ではありません。主体的に、周囲の環境に働きかけて学ぶ存在です。


・ひとりひとりが「成長のプログラム」を持っている

環境があれば、なんでも取り込むかというと、そうでもありません。赤ちゃんの発達が
首がすわる → 寝返り → 這い這い
 と、順番に起こるように、発達には生まれ持った順序、「プログラム」があるのです。

・必要なときに必要な学びを行うと、子供の良さが出てくる(正常化)

乱暴だったり集中力がなかったりという問題は、成長のプログラムをきちんと踏めなかったためだ、とモンテッソーリは考えました。
そこで、成長のプログラムをきちんと踏めるよう援助できれば、問題行動を治すことも出来ると考えます。

 モンテッソーリ教育は、こうした子供観をもとに「子どもが自ら学ぶことを援助する」ことを目的にしています。
 その適切な援助に必要なのが、前回も書いた「敏感期」の知識。敏感期の活用こそが、モンテッソーリ教育の最大の特徴です。 

2012年8月11日土曜日

イヤイヤ期の簡単な対処法


 友達夫婦のところに遊びに行ったときのことです。
「疲れたなー」
 と、その家のご主人が寝っころがったとたん、当時2歳だった娘さんが、怒りだしました。「だめー!」と叫びつつ、お父さんの頭を押しのけようとします。お父さんもお母さんも、なんで子供が怒っているのかわかりません。

 娘さんはさらに大声を上げて「まくら違うー!」
 よく見ると、ピンクの線が入った枕カバー。これでピンときました。
「あれ、お母さんの枕ですか?」
「そうですけど」
「じゃ、お父さんがお母さんの枕で寝てるから、怒ってるのかもしれませんよ」
「は?」
 半信半疑のお母さんが枕を取り替えると、娘さんはけろっと機嫌を直しました。

 これはモンテッソーリ教育で言う「秩序感の敏感期」のなせる技。
 

■秩序感の敏感期とは?

2歳、3歳頃、子供が急に泣いたり怒ったりして言うことを効かなくなるのを「イヤイヤ期」と読んだりしますね。
 実はこのころ、子供は「秩序感の敏感期」にあります。「誰のもの」という区別や、物事の順番、ものを置く位置などに、強くこだわる時期だと思ってください。

 子供は、周りの物や慣れた手順を基準にして生活しています。
 そのため、ものの場所が変わったり、手順が変わったりすると、どうしていいかわからなくなって大混乱するわけです。

 イヤイヤ期というと、わざと反抗していると考えがちですが、実は変化による混乱でパニックになっているだけだったりします。原因がわかれば相手をするのも簡単。だから「秩序感の敏感期」に気をつけるだけで、大半のイヤイヤは消えてしまいます。

■イヤイヤの時は「なにか変わっていないか?」

いつもと違う手順でやっていることはないか、いつもと違う場所にものをおいていないか、個人のものを間違って使っていないかなどチェックして、もとに戻してやるだけで、子供はおとなしくなります。

 いつもの食器を割ってしまったなど、もとに戻せないときもありますが、何を嫌がっているのがわかるだけでも
「そうか、そうか」
 と対応する余裕が出てきます。親も楽だし、子どもにも優しい。

 というわけで、次回はそのモンテッソーリ教育について。

 

モンテッソーリ教育は親にも子にも優しくてオススメです


 三十代半ばにして、娘を授かった父親です。
 幸いにも自宅仕事の自営業なので、おむつ替えから寝かしつけ、遊び相手まで、思うぞんぶん子育てに関わることができました。
 だからというわけではありませんが、子供は可愛いです。そりゃあもう、可愛い。顔が私に似てしまったのは可哀想だけど、やっぱり可愛い。

 可愛いもんだから、出来る限り甘やかして育てたいし、叱りたくもない。といって、全く叱らないわけにもいかないので、なるべく叱らないですむ方法を模索してきました。
 そこでもっとも役立ったのが、モンテッソーリ教育の知識です。

 英才教育と考えられることの多いモンテッソーリ教育ですが、本当の価値は、観察に裏付けられた子供への理解にあります。
 イタズラや反抗に見える行動にも、成長に関わる理由がある。そのことがわかってくると、叱る必要が激減します。ちょっと配慮するだけでトラブルが減らせるので、親も楽。

 本格的なモンテッソーリ教育を行うには専門知識も設備も必要です。しかし「モンテッソーリ教育の風味」をちょこっと足すだけでも、子育ては楽になる気がします。

 私と同じように子どもを甘やかしたい親のために、モンテッソーリ教育を中心に、「親業」の話など、いろいろ書いてゆきたいと思います。